一節ごとに解いていこう。最初の句節に郷歌制作法を適用してみた。
吾 妹 子 之
「私の、世の中の道理を知らない妻が、幼い男の子を残してあの世に行っているね」と解読される。
「妹」は「昧」と見る。郷歌と万葉集では「妹」は「世の中を知らない(昧)女」という意味で使われる。代表的な例で言えば、持統天皇に対して、彼女の子孫たちが「妹=世の中の道理を知らない女」と称している。
「之」は接尾語ではない。「文章+ね(さ)」である。すべての作品でそうだ。「之」のように二つの意味で使われる文字を「多機能(重義的)文字」と呼ぶ。
「子」は「息子」だ。現代の日本で見られるような、人の名前などにつける接尾語として捉えてはいけない。郷歌や万葉集では、複数の漢字を用いて一つの語彙を作るのを極力避けている。つまり独立した音節と捉えるべきだ。
大伴旅人は太宰の帥として赴任したとき一人の女人を傍に置いていた。女人の身分はこの作品だけでは分からない。彼女との間に幼い男の子がいた。その子を置いて亡くなったから、世の中の道理が分からない女だと言ったのだ。
大伴旅人は730年、大納言として奈良の平城京へ呼び戻される直前に女人が亡くなったようだ。
最初の4文字を郷歌制作法で解いてみるや、このような驚くべき結果が出た。私は緊張せざるを得なかった。
2番目の句を慎重に解読してみた。
見 師 鞆 浦之
「見えるね、私の女人が、人々が弓を射ている中、あの世へ行く渡し場に向かっているさ」と解読するのが真っ当だ
「見」という文字は「棺衣」と捉えるべきだと言ったら、それなりに漢字が分かる方々も驚くはずだ。しかし、ここは「棺衣」として使われたに違いない。
667年、近江遷都の際に中大兄皇子の指示により額田王が作った万葉集17番歌にも同じ事例が出ている。
「見」という字は、棺を担いで葬儀行列が進む演技をしろという「報言」として機能する。
同時に、「見」は「見る」という意味でも使われている。見は「見る+棺」という二重の意味で用いられているのだ。
「師」はあらゆる人である。葬儀の行列について行く多くの人々を意味する。730年12月のある冬の日、女人が住んでいた家から旅立った。おそらくは、冬の海風が吹く寒い日だっただろう。
「鞆」の字は、「弓の腕輪」という意味を持っている。弓を射るとき、弓を握る腕の袖をまくり上げておく帯のことだ。
韓半島はもとより日本でも、人が死ねばその人に向かって弓を射る風習があった。迎えに来た死神に死者を指しながら「あの人だから(他の人と)間違えず連れて行って」という意味で行われてきた。現代の韓半島では消えた風習だが、日本では神社などに鳴弦の儀として残っている。
冬の旅びと 万葉集446番歌<続く> |