ヒトラー政権下の1936年に開かれたベルリン五輪。マラソン競技に日本代表として出場したソン・ギジョン(ハ・ジョンウ)は見事、金メダルに輝く。銅メダルを獲得したナム・スンニョン(ペ・ソンウ)と表彰台に上がったソンは日本国歌が流れる間、月桂樹の鉢植えで胸元の国旗を隠したことが問題視され、引退を強いられる。
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祖国解放後の1946年、ソウルで荒れた生活を送っていたソンの前にナムが現れ、ボストンマラソンを走ろうと誘われる。1年後、ソンが監督を務めることを条件に招請状が届く。
「ソン・ギジョン世界制覇10周年記念マラソン」で優勝したソ・ユンボク(イム・シワン)は賞金が出ないから走らないという。ユンボクは貧しい母子家庭で病気の母親の面倒をみているため、ナムは内緒で金を払うから走るようにと勧誘する。
米軍政庁から韓国は独立国ではなく難民国だから、出場選手の保証金として900万ウォンが必要だと言われる。保証金の基金を集めることを目的にミニマラソン大会を開いて、ユンボクを”第2のソン・ギジョン”として売り出そうとする。ところがユンボクはコースを間違え4位になってしまう。ソンは「最後まで走れる力は謙虚さだ」と叱りつける。
亡くなった母親を手厚く葬り、練習に専念するユンボク。だが保証金を支援してくれるスポンサーは見つからない。ソンは米軍政府に圧力をかけるため、出征式を行うことにする。大勢の人々が集まる中、米軍のホッジ中将が「保証金問題の解決を本国に要請したが、残念ながら入国できない」とスピーチする。すると観衆から募金が始まり、たちまち目標額を達成する。
1947年4月8日、ボストンマラソンの11日前、出場する3人はついに祖国の記録を取り戻すため、米国へと旅立つ。しかし予想をはるかに越える困難が待ち受けていた。
公開=8月30日(金)、新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか順次全国公開。
公式HP=1947boston.jp/index.html |