台湾の歴史から考える『国』
現在の中華民国の旅券
中華民国という国がある。日本国政府は一九七二年以降、正式な政府として公認していないため、新聞社や通信社などの多くのメディアでは台湾と表記する。中華人民共和国では「一つの中国」を唱えてはばからないが、それは台湾側からみると「迷惑な話」でしかない。モンゴルや韓国・朝鮮などの分断された国とは事情が違うからだ。
台湾が中国であった期間はわずかだ。一八七一年の宮古島島民遭難事件においても清朝政府は台湾の民を「化外の民(統治が及ばない民)」として責任を放棄している。台湾の中華民国としての統治は、一九四五年、GHQの指導のもと米軍艦船により約一万二千人の中華民国軍関係者を移住させてからに始まる。その二年後の一九四七年二月二十八日には、抑圧に耐えかねた台湾人による二・二八事件が早くも勃発、これを契機に台湾人へのジェノサイドがその後も長く続いた。
そして最終的には、国共内戦で敗れた蒋介石が一九四九年に政府を台湾に移転、一九五〇年に台北に新たな中華民国政府が樹立された。元来の台湾人から見れば「中国人に占領された」だけの話なのだ。占領した側の外省人は僅かに一三%。占領された側の本省人との融和が台湾の現在の課題なのである。
だから中華民国政府の発行するパスポートの表紙には『中華民國護照(旅券)』という表記と同じ大きさで『TAIWAN PASSPORT』と記されている。『台湾』の文字は国民の誇りの象徴なのである。
徳川光圀の『圀』と鄭成功と朱舜水
国性爺合戦という歌舞伎がある。近松門左衛門原作のこの歌舞伎は江戸時代初期に大ヒットを重ね、現在でも上演される人気作である。主人公は中国人と日本人のハーフである鄭成功。舞台は台湾であり、実在した鄭成功をモデルとした物語だ。
朱舜水
鄭成功は一六二四年(寛永元年)、日本の肥前国松浦郡平戸島に日本名を田川福松として生まれた。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。隆武帝から明の国姓である「朱」を許され、台湾では三人の国神の一人として信仰の対象にもなっている。特に顕著な功績は、オランダ軍(東インド会社)を完全に台湾から駆逐したことだ。これにより台湾に初めての独立政権を確立した。鄭氏政権は三代、一六八三年まで続いた。
鄭氏政権は清国政府と戦うため、徳川幕府に軍事支援を求めた。この時随行したのが鄭成功の側近である朱舜水である。彼はその後、日本に亡命、一六六五年(寛文五年)には江戸の水戸藩小石川邸にて徳川光圀と対面した。朱舜水は六六歳、徳川光圀は三八歳であった。
二人は互いの考えに共鳴し、奇跡的な出会いを天に感謝した。朱舜水は儒学のみならず、中国の知識、数多の航海で得た世界情勢などを、惜しみなく光圀や水戸藩士たちに伝えた。朱舜水は空論を排し、実学を尊ぶ陽明学も重視するよう説いた。それは祭器、養蚕、種痘の処方にまで及び、こうした実用的な学風は「水戸学」として独自の進化を遂げることになる。
徳川光圀の本来の名前は『光國』である。一六七九年、隠居を見据えて『光圀』と改名した。『圀』の字は則天武后(武周六九〇~七〇五年)の時に創作された則天文字の中の一つである。『國』の中に『惑』を含むことを武則天が忌み嫌い、中を『八方』へと変えさせたのだ。『圀』の字の意味を伝えたのは朱舜水であった。
『光圀』に改名した三年後の一六八二年、朱舜水は八二歳の生涯を閉じる。隠居後の活躍は水戸黄門として全国に知られるようになった。その精神は、「惑わされることなく、八方を見渡せるように」との信念であり、それは朱舜水との深き絆の証でもあったのである。
(つづく)
水間一太朗(みずま いちたろう)
アートプロデューサーとして、欧米各国、南米各国、モンゴル、マレーシア、台湾、中国、韓国、北韓等で美術展企画を担当。美術雑誌に連載多数。神社年鑑編集長。神道の成り立ちと東北アジア美術史に詳しい。 |