前近代を席捲した儒教 現代に何を問いかける?
中国の鄧小平主席が副首相の時、日本の使節団に対して「中国は歴史的に日本に二つの点で迷惑をかけた。一つは漢字で、もう一つは孔道の道(儒教)だ」と語っている。もちろん政治的な発言ではなく一種のユーモアなのだが、いろいろ考えさせる発言である。当時、中国は批林批孔(林彪事件の始末と儒教排斥運動)の真っ最中であり、その前の文化大革命も2000年以上続いた儒教を葬り去る運動であった。論語を捨てて毛沢東語録を読めという。
百済の王仁博士が伝えたという漢字についていえば、中国の革命政府は1958年の人民大会でローマ字への転換を採決していたというから驚く。現在は略字化という暫定段階らしい。いずれはローマ字のような表音文字に替えてしまう可能性がある。漢字の国であったベトナムはフランスの植民地になった時に廃止。韓半島では15世紀にハングル文字を生んだことは改めて語るべくもない。やがて日本は世界で唯一の漢字国になってしまいそうだ。
儒教のほうはどうか。本紙で私のコラムを担当している渡邊さんは韓国に留学して儒教を研究したというから私が語るのも恥ずかしいが、日本では一応、王朝の貴族は儒学の教養があったし、江戸時代には各藩が競って儒者を召し抱え、庶民も寺子屋で少し学んだ。維新後には必須科目になった。しかし、「子曰く」を一心不乱に学んだのは主に武士階級といえる。ただ中国や韓国のように社会体制として儒教を取り入れたことはない。
日本の儒者に尊信された李退渓(1501~70年)中国の朱子学は後継を得ず、正当な後継者と言われた朝鮮時代の大儒だ
日本の儒教の隆盛期は江戸時代。宋代の儒者、朱熹がたてた朱子学(性理学)が主流となる。朱子学では、『大学』に定められた八条目(格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下)のプロセスに基づき、政治に携わる人間個人の心の修養が国家安泰や世界平和にまで直結すると考える。お家安泰を目指した徳川幕府は、上下関係や身分秩序を絶対視した部分を切り取り、大名や諸将に植えこんだ。二度と明智光秀のような謀反人が現れないように教育したのだ。
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儒教は宗教ではなく生活の規範、いわば身持ちの哲学であり、仏教や神道、キリスト教のように苦難を救う現世利益や来世のことを祈るものではない。平気で人前で裸になって夕涼みする日本人にその哲学は浸透することはなく、極めて薄くしか受け入れられなかった。そのあたりは電車に乗り、老人や障害者などのための優先席を見ればたちどころにわかる。私が見た限り、韓国では若者が堂々と座っていることなどなかった。
東方礼儀の国と称えられる韓国の時代劇でたびたび目にするシーンがある。宮廷の高官や儒臣たちが御前会議の折、王様が意見を発するや儒教の理念に訴え、「聖道の道から外れています。お考え直しください」と、王様をがんじがらめにしてしまうシーンだ。儒臣も儒臣で、朱子学の教義に対する解釈の違いで西人や東人、さらにそれが分派して南人や北人が派生し、議論を戦わせた。いわゆる「党争」という骨肉の争いを時代劇が扱うことも多い。
庶民もまた儒教でがんじがらめになっていた。商売を蔑視し、働くこと自体も蔑視するような教えにより、経済は発展せず社会が停滞したことも事実である。中国が儒教を全面否定した理由もそこにある。そんな儒教の弊害について在日の友人に話すと、だいたい怒る。その友人は無宗教だが、自分や家族のアイデンティティーは儒教だと胸を張る。
京畿道坡州郷校内の孔子廟。史跡や観光地としてではなく、今も市民が訪れ祀っている。背筋がピンとする思いだ
韓国にはどんな田舎にも孔子を祀る孔子廟がある。今から5年ほど前に秀吉の朝鮮侵略の折、降倭となって王朝に仕えた沙也可(韓国名・金忠善)の末裔が住む大邸近郊の友鹿洞を訪ねた。80軒ほどの小さな村であったが、小川のほとりの山裾に小さな孔子廟があったことを覚えている。韓国らしい風景であった。日本には徳川時代の名残として湯島聖堂や数カ所の藩校が文化財として残る程度で、民間では長崎の旧唐人街に今も人々が集まる孔子廟くらいではないか。
6月26日の朝刊を読んでいたらちょうど、「世界競争力ランキング」なるものが発表されていた。主要67カ国・地域が対象で経済実績・政府の効率性・ビジネスの効率性・インフラの4分野で評価したものだ。日本は1989年から4年連続で世界のトップにあったというが、38位と、また順位を下げタイやインドネシア、マレーシアにも抜かれてしまった。トップはシンガポールで、香港が5位、台湾が8位、中国が14位、韓国は20位であった(米国は12位)。
この結果を見ると、もはや儒教の弊害は過去のこと。逆に躍進の根底に儒教の「仁、義、礼、智、信」の教えがあるのではないかと思えてくる。儒教思想は薄れているというが、韓国はもちろん台湾、シンガポールや香港だって儒教が今も尊ばれている国だ。
かたや日本の経済はこの為体。特に政治家は今こそ儒教を学ぶときが来たのではないかと思ってしまう昨今の情勢である。 |