日本には”終わりよければ全てよし”という格言があります。これはシェークスピアの〝All`s well that ends well〟からきたという説もありますが、釈迦の言葉に”人生で必要なのは続けることよりも終わりを見つけることである”ともあるらしいです。このように、日本では終わり方を重視します。
これに対して、韓国には〝シジャクハミョヌン パンテンダ〟(始まれば、半分達成)という言葉があるようです。始まりの勢いを大切にする韓国の風土と、終わりを重視する日本の対比は面白いと思います。
確かに、日本は始めるまで慎重です。韓国では、早々とキャッシュレス決済を始めているのに、日本ではいまだに現金決済が通用しているのもその好事例かもしれません。しかし、日本は一旦始めると徹底的に終わりまでやり切ろうとします。その良い事例がサハリン残留韓国人問題です。私たちは1975年に裁判を始めましたが、外務省の課長がわざわざ裁判に出て来て「外交問題なので自分たちに任せてほしい、日本から雑音が聞こえると逆効果だ」と、静かにするようにという旨の発言をしたのです。
それから10年近く静かにしていても、何の進展もありませんでした。ソ連邦の改革とゴルバチョフ(85年書記長就任)のペレストロイカ(87年)の成果に期待するしかなかったのです。
ちょうどその頃、私は大沼教授と「戦後責任を考える会」を通して議員懇づくりに邁進し、87年に設立したのは偶然とはいえ、歴史的に貴重な一致でした。また、この頃のロシアのユダヤ人出国問題もサハリン韓国人の出国に影響があったのです。そして88年に初めて調査費(300万円)として予算が付いたのです。
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朴魯学さんたちが日本に来て運動を始めたのは、57年頃でしたので、日本政府が振り向くまで30年かかったことになります。しかし、日本の国家予算でサハリンの韓国人のための支援金などを直接渡すわけにはいきません。日本赤十字社と大韓赤十字社による共同事業体をつくり、その事業体に日本政府の予算を投入することになったのです。88年にはソウルでオリンッピクが開催され、韓国の国際的地位も高まり90年の韓ソ国交正常化も良い影響を与えました。
日本政府による赤十字共同事業を通した支援は、最初はサハリンから韓国を訪問する一時帰国の支援でした。90年頃までの約2年で私がボランティアとしてサハリンから1000人を呼び、韓国からも家族が来て再会活動をしたのですが、それを引き継ぐ形でサハリンからソウルへのチャーター便を月1回ほど飛ばすようになったのです。
95年からは韓国への永住帰国も始まり、その永住帰国者のサハリンに残した子女との再会のための再訪問も始まりました。その結果、サハリンからの一時帰国者は延べ約1万8000人、永住帰国者約4000人、サハリン再訪問は約6500人という多数にのぼったのです。
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そのうち、永住帰国は昨年と一昨年も実現しているので、88年の調査費用からするとこれまで35年間にも及ぶ事業となります。しかし、このように長きにわたる経過ではいつどのように始まったのかが忘れられてしまいます。最近(2023年2月17日)も、韓国のKBSは永住帰国を報道するに当たり、サハリン韓国人の帰国事業は韓国政府が「1990年から人道支援として進めて」いるとし、全てが韓国政府の事業であるとして日本の関与について触れていないのです。これも歴史の歪曲になります。
そのような事例もあり、当初からの経過を知っている私としては、しつこいほど歴史を強調して繰り返し述べなければならないと思うのです。 |