NPO法人・大阪ワッソ文化交流協会は22日、大阪歴史博物館4F講堂で、歴史文化講演会を開催した。300人が聴講した。
講師は、国立歴史民俗博物館の高田貫太教授と滋賀県平和祈念館の朝倉敏夫館長の両氏で、高田教授は「海の向こうから見た倭国」、朝倉館長は「韓国文化を考える~一杯のご飯から」と題してそれぞれ講演した。
高田教授は、豊富な映像を駆使して倭と韓半島の交流史を、古墳からの出土物の比較により解説した。講演要旨は次の通り。
古墳時代の倭は、韓半島から多様な文化をさかんに受け入れ、取捨選択し、変容させ、みずからの文化として定着をはかり、百済や新羅、加耶、そして栄山江流域と交渉を重ねた。
韓半島南部の交易は、日朝の沿岸や島々に住む、漁業をなりわいとし、優れた航海技術をもった人びとを通じて行われていた。北部九州の有力者は、それらの海村をむすびつける網の目状のネットワークを利用して、青銅器や鉄の入手につとめた。
鉄などの必需物資や先進文化の安定的な受容をめざした倭王権は、金官国(狗邪国)を重要なパートナーと位置づけ、直接交渉しようとする。鉄生産と海上交易によって成長を遂げ金官加耶の盟主となった金官国にとっても、倭王権とつながりを持つことには大きなメリットがあった。
4世紀後半には韓半島北部の高句麗が、韓半島中南部への進出をもくろみ、これを契機に百済は倭王権に接近し、金官加耶の仲介によって百済と倭の王権間の正式な通交が始まった。
4世紀末から5世紀前半の韓半島では、高句麗が韓半島南部への進出を本格化させ、そのため、倭の主要な交渉相手だった金官国は大きな打撃を受けて衰退する。一方、高句麗と従属的な関係をむすぶ新羅、高句麗の南下に対峙する百済、金官国の衰退と相前後して台頭した大加耶が、倭との交渉を活発化させた。
5世紀後半になると、倭王権からみれば、当時の韓半島情勢は相当に不安定なものだった。5世紀の外交は、主に北部九州や吉備など有力な地域社会とのいわば「呉越同舟」のような形で半島へおもむくようなものだった。倭王権にとってあなどることのできない地域社会が、北部九州と吉備だった。
6世紀前半になると新羅が加耶へ攻め入るようになり、532年には金官加耶が滅亡する。これによって新羅、百済、大加耶の対立が表面化し、高句麗に対抗するための三者の協調関係は崩壊する。百済は倭と緊密な関係を維持し、倭に対して軍事的支援を要求することもあったようだ。そして、その見返りとして先進の技能者を倭へ派遣した。
この時期の大加耶の周縁には、さかんに倭系古墳が築かれた。その被葬者は、倭からの渡来人や倭と深い関係を有する人だった。韓半島西南部の栄山江流域で十数基の前方後円墳を築き、倭とつながっていることを百済に対してアピールすることで社会の自主性を維持しようとした。
日本独自とされる前方後円墳が韓半島西南部の栄山江流域で十数基も発見されたことは、前方後円墳を検証していくことの重要性を示唆している。
朝倉館長の講演要旨は次の通り。
韓国と日本でご飯の食べ方の違いは、韓国ではご飯が山盛りで出される。混ぜて食べるビビンパや汁に入れて食べるクッバ、葉に包んで食べるサムバプなどの食べ方がある。食器は、金属製の器に匙と箸だ。
日本では、ご飯が茶碗に軽くよそわれ、おかわりができる。食器は木器や陶磁器で、箸の国とも言われる。このように、歴史や風土などによって、日本と韓国は、「似て非なる」食事文化が形成されたといえる。
(大阪=韓登) |