いま、世界で日本の評判が良いというのは、よく聞く話です。戦後日本の経済発展、それを支える物づくりの精神と、勤勉な国民性が評価されることもあります。特に、相手を思いやる気持ちがそなわっている人が多くなり、清潔、静謐な日常生活が通常となりつつあるのも特筆すべきことと思います。
私の経験でも落とし物、忘れ物があっても届けられ、戻ってくることも驚くべきことです。それだけ高い倫理観を備えていると見られるからこそ、日本の戦後のあり方に「画竜点睛を欠く」場面があるのが残念なのです。その場面こそ、「戦後補償」の不実行だと考えます。
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私も戦前の状況を知らない戦後世代です。昔(1990年代)、「朝まで生テレビ」という番組に出演したとき、司会をしていた野坂昭如さんから年を聞かれました。
野坂さんはいわゆる「焼け跡闇市派」です。30年生まれの野坂さんは幼少期はまだ生活に余裕があったのに、「44年生まれの〓木さんは戦後の食糧難の時代が幼少期なので生まれた年は違うが、死ぬのは同じ頃だ」というのです(しかし2015年に亡くなった野坂さんの予想は残念ながら当たっていません)。
新憲法に育てられた私たち戦後世代にとって、分からないのは戦前の状況です。サハリンで戦前の強制労働での虐待や逃走に失敗した人に対する拷問などの話を聞くたびに、なぜそこまで苛烈になれるのか、私の一世代前の日本人が! と思ったものです。元慰安婦の体験談を聞くと、朝鮮・中国などの女性を同じ人間として見ているのであれば、とても出来ない扱いをしています。
父の世代の人も、私たちと同じ優しい人も多かったはずなのに、なぜそのようなことができたのかと、聞いたものです。
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済州道の慰安婦問題で有名となった吉田清治さんの答えは、当時の空気、社会状況だというのです。
日本の兵隊が前線で苦労しているので、後方にいる朝鮮人を連行するのに罪の意識は感じなかったと話していました。
日本は、日清・日露戦争までは欧米の協力を得るために戦時国際法を守ろうとしていました。戦闘艦に国際法学者を乗せ、攻撃の度に撃ってよいかの合法性を確認したとも聞きました。まして、戦時捕虜の扱いは国際法に則った立派なものでした。徳島県「板東俘虜収容所」のドイツ人捕虜の話は有名です。
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ところが、太平洋戦争時には「生きて虜囚の辱を受けず」との「戦陣訓」をつくった東条英機が戦争を指揮したことにより、連合国軍の捕虜虐待につながり、あるいは戦場の兵士の意識を拘束し、無駄に死んだ日本兵も多かったのです。
その結果、日本人だけでも市民も含めると310万人が死亡しています。これに対して日本の被害を受けた中国の死者数は1321万人とも言われています。
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問題は、後始末です。日本政府は日本人の元軍人には恩給を始め、手厚い支援をしていますが、空襲被害者のような民間人には何の対策もしていません。国籍のない韓国や台湾の元軍人や民間人は無視されています。
日本兵は補給の乏しい軍隊でした。食料は原則、現地調達なので略奪は日常的でした。よくて軍票での購入ですが、軍票が使える場所は少なく戦争が終われば紙切れです。
アメリカ兵のように一定期間後の交代もなく、リフレッシュする余裕もありません。現地でのレイプが多発したのです。その対策として軍の上層部が考えたのが従軍慰安婦なのです。そのように犠牲を強いた人々に日本は補償すべきなのです。
つまり戦後補償に取り組まなかった日本が、現在どんなに評判が良くても、「画竜点睛を欠く」と言われても仕方がないのだと思うのです。残念至極です。 |