繰り返しになりますが、1987年に発足した「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」は、画期的な組織でした。何の利権にもつながらず、外国にいる外国人の人権問題なので、選挙の票にもつながりません。
しかも、日本の歴史の負の部分に向き合い、これを批判し、反省することも求められているのです。このように重いテーマに取り組み、解決のために結果を出すことを目的とする国会議員の議員懇談会に自民党と社会党を中心に、155人もの国会議員が参加したこと自体、稀有なことでした。
議員懇発足後、原文兵衛会長と五十嵐広三事務局長を中心に行われた実体のある活動も注目されるものでした。
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議員懇は、ソ連だけでなく北朝鮮に対しても機会ある度に働きかけを行いました。私たちの目的はサハリン残留者の韓国への帰還です。北朝鮮は表向きは在外同胞はすべて北朝鮮の公民であるとしていましたが、故郷の地への帰還は人道問題であることから、強くは反発しませんでした。
後に韓国に亡命する黄長燁(ファン・ジャンヨプ)書記が来日した際も大沼保昭教授は同書記と面談し、理解を求めたということでした。
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議員懇所属の議員による国会での質問は合計50回も行われました。このような国会議員の動きを反映して、日本政府は外務省の87年度予算として227万円の調査費を付けたのは実に重要な出来事でした。
日本では通常、予算決定まで慎重で、時間がかかりイライラする場合もありますが、いったん決めるとずうっと続くのです。現に、87年の調査費から始まった日本政府のサハリン「韓国人」支援は、これまで35年間も続き、累計予算は約90億円に達しています。
この予算で1万7000人の一時帰国、3770人の永住帰国、8140人の永住帰国者のサハリン再訪問が実現したのです。永住帰国のために日本政府が拠出して建てられた1000人収容のアパートや療養院もあります。また、サハリンの残留者のためにサハリン韓人協会に提供されたサハリン韓人文化センターもユージノサハリンスク市に建築されています。
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これらの日本政府の支援に対して、一部のメディアでは無駄な予算だとする意見もあります。産経新聞は、朴魯学さん(サハリン帰還韓国人会会長)の裁判での証言を引用して強制連行はなかったとも主張しています。
昭和18年に一家族で1名を出せと区長からも強制され、断ることは出来なかったと朴さん自身証言しています(昭和56年7月10日証人調書76頁~)。
しかも朴魯学さんは、連行の2年後に炭鉱で皆が集められ、戦争が激しくなったため戦争が終わるまで辛抱してくれと言われ、現地での徴用を強いられたというのです。このように強制連行はなかったという説は成り立たないのです。
産経新聞では戦後残留した韓国人は1万人前後だとも言いますが、解放された朴魯学さんはサハリンで戦後直後に居留民団を結成して調査をした結果、4万3000人という数字が出てきたのです。ソ連が北朝鮮から労働者を取り入れたのはずっと後のことになります。
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いずれにせよ、日本政府(外務省)はこれまでの事業について「長期間サハリンに残留を余儀なくされた、歴史的経緯及び人道的立場から」行っている事業であり、「韓国国内から高い評価を受け」「現地(サハリン)でも」高く評価され、「日本側の誠実な取り組みぶり」が示されていると述べているのです(外務省北東アジア課作成、令和3年度在サハリン「韓国人」支援出金の「評価シート」から)。 |