前回「アヒル論争」というものについて書いた。稲作は韓半島を経由した説と中国・長江下流域から直接海を越えたという二説が有力だが、直接伝わったのならアヒル大好きな中国の農民がアヒルを伴ってきたはず。しかし日本にアヒルにまつわる文化は皆無。したがって稲作はまず韓半島西南部に伝わり、後に韓人により伝播したのではないかという知る人ぞ知る論争だ。
その記事を読んだ韓国の友人から電話があった。”オリタン”というアヒル鍋が全羅南道の光州の伝統料理だというのだ。アヒルを長時間煮込み、エゴマをたっぷりかけた濃厚スープが特徴で、市内にはオリタン通りまであるという。
本格的な稲作の始まりは、韓半島は紀元前7~8世紀、列島は同4世紀ごろといわれる。大陸からまず伝わった全羅道にアヒル文化が留まったということか。
ちなみに全羅道で生産される米は戦前日本で一番高価な米として流通したらしい。独特のモチモチ感と甘さがあり、とてもおいしい。ということで今回も米の話。古代人は米をどのくらい食べていたのかという謎に迫ってみた。
光州地方の伝統料理「オリタン(アヒル鍋)」。このほか燻製や鉄板焼きや水炊きなどもありアヒル料理はバラエティー豊かだ
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古代人の食生活については楽観論と悲観論に分かれる。楽観論は巨大な墓を造った強力な王権の基盤には米の大きな生産力と余剰があった。悲観論は古代の稲作の生産性は極めて低かったという検証によるものだ。こんな見方もある。古墳時代のように各地の豪族たちに牛馬のようにこき使われた時代と中国や半島王権に習い、公地公民、土地と人民の国有化が図られた7世紀末~8世紀の律令制の時代と比べると、弥生・古墳時代の方が庶民はなんとか食えたというものだ。
律令制によって米で収める租は意外にも3%程度(1反につき1束2把)であった。江戸時代の四公六民、織豊時代の七公三民と比べれば拍子抜けするほど低かったが、善政というより生産性のあまりの低さによるものだろう。しかし麦や豆類、布や絹の織物、各地の特産物を収めることを課し、年間60日も労役に就かなければいけない庸や調、雑徭は庶民を苦しめ続け浮浪・逃亡が相次いだ。
律令制により王権は宮廷を運営したのだが、国家事業として行われた東大寺の写経所で働く職員の食事の内容が正倉院文書として残っている。納入された紙のサイズを整え筆が滑るように紙を打ち、界線を引き最終的に装丁までする装〓。寺院や役所から出向した字の巧みな職員により書き写す経師。文字や書き間違いを校正する校生など60人から70人が働いていた。スタッフは宿舎で共同生活し、食事は朝夕の2回だが昼には間食が出て餅や団子などを食べていたことが「食法」という書き付けに残っている。
副食は2~3品ついた。各種の海藻や大豆、小豆を醤や味噌、粕や酢で味つけしたものや漬物や生野菜、果物も出てなかなかのもの。びっくり仰天するのはご飯の量!! 経師と装〓に用意されたのは一日2升、校生には1升6合と書かれている。尋常ではない量に驚き調べてみると、その時代の1升は今の4合くらいであることがわかって、なぜか安心したが超大食いだ!! しかもあの時代に黒米(玄米)ではなく白米であった。
写経に携わる人は下級役人ではあったが、後に国司や高級官僚になった人もみられエリートとして優遇されたのである。ただし仕事は厳しく1カ月に日勤20日、夜勤20日もザラだったという。
一方、労働者はどうかというと、国家事業として平城京工事現場で働く人(各地から動員された人々)は一日玄米8合(現在では3合くらい)が支給されたが休めるのは雨の日だけ。そのかわり食事は半減されたというから辛い。
もちろん庶民が何を食べていたかという資料はない。それがうかがえるのは百済滅亡時に父と共に渡来した山上憶良の貧窮問答歌だ。「甑には蜘蛛の巣かきて飯炊く事も忘れ……」炊く米もないという嘆きが聞こえてくるようだ。
時代は遡り、古墳時代直前の弥生時代後期になるが古代の稲作に詳しい寺沢薫氏は大阪府八尾市の福万寿遺跡の水田跡から推定して、上田クラスの水田の収穫量では家族一人が一日当たり0・5合とか0・9合、最悪の水田では0・28合くらいしか食べられなかったろうと計算している。律令時代、五穀(米、麦、粟、大豆、小豆)は納税の対象になっていたが稗は対象外であったから、米をたらふく食べることは一生なく、わずかの米と稗、ドングリの粥が主食であったのだろう。
余命いくばくもなく伏せている老人に家族がわずかな米を炊き、「お父さん、ごはんだよ」と耳元でささやくと、老人は目を開き起き上がるといったシーンを思い浮かべる古代人と米の関係だ。
役人と庶民の食の関係は韓半島でも同様であっただろう。 |