大和の磯城に蟠踞したのが新羅辰韓勢力で、遅れて渡来したのが河内阿倍野に定着した百済辰韓勢力だと考えられる。その倭地での氏族が阿倍氏だと考えられるのだ。
『記・紀』は”韓隠し”を徹底した偽史
〈神武紀〉は、400年前後に高句麗広開土王に撃破されて倭地に逃れた沸流百済が自らの存在を黒子にしての大和侵寇譚であることを明らかにしたが、その沸流百済の構成氏族の一員であった百済系辰韓勢力は、磯城の新羅系辰韓勢力の事績を取り込んで自らの事績とし、新羅の匂いを消してしまったと考えられる。
それは、沸流百済が、倭地の支配者になるためには、先住の新羅系氏族よりもずっと前から居住していることが必要だったからだと思われ、そうであってこそ、異議なしに先住氏族を平定することができたであろうと思われるからだ。
問題はその証拠探しだが、当の本人である沸流百済が自らの存在を黒子にしてしまったから、それを復元することは非常に困難だ。当時の状況証拠を収集し、”韓隠し”を表に出して、復元を試みるより方法がないと考えられる。
もう一つ、ヒコフツオシマコト(彦太忍信)のことだが、その人物にも沸流百済のフツという核分子が隠されていて、フツヌシ(経津主)という人物になり、石上神宮の布都御魂に化生して核爆発を起こし、武内宿禰に繋がって、多くの氏族の始祖となっているように感じられる。それも沸流百済が、多くの氏族を服属させる方便だと考えられるのだ。
さらには、意富那比=乙彦=建田背=欝色雄=孝元=天日槍=饒速日という可能性があり、建田背が大きな役割を果たしていることが窺われる。その建田背は、歴史ではややもすると軽視されている京都は丹後を始原にしているのだ。
第40代天武の勅諭によって、712年(元明朝和銅5年)に成立した『古事記』と、720年(元正朝養老4年)に完成した『日本書紀』が、日本国の歴史の始まりで、平安時代には「日本紀講筵・竟宴」という宮廷行事があって、『日本書紀』を正史として学んでいた。その行事は30年おきに1回開催され、数年かけて全30巻の講義を行ったということだ。
『古事記』と『日本書紀』、つまり『記・紀』を最初に目にした人は、そこに何が書かれ、どのような意味なのか、筋道立てて理解できる人はほとんどいなかったと思われる。換言すれば、日本の歴史の始まりがさっぱりわからないという代物だ。
平安時代の「日本紀講筵・竟宴」で、『日本書紀』を目にした平安人も、そうだったと思うのだが、講師が、『日本書紀』に記されていない言外の意味を自分なりに解釈して、筋道が立つように教えたと思われる。というより、講師団が事前に集まって打ち合わせをし、日本国にとって都合のいいような歴史に創り上げたといったほうがいいかもしれない。
『日本書紀』を日本国の独立宣言書だと評する学者もいる。天武が新たな日本国を目指して『日本書紀』の編纂を命じたからだ。その『日本書紀』には韓国(からくに)のことがやたらに出てくる。織物とか鍛冶が韓国から移入されているような記述があるのだが、しかし、その韓国との関係が実に曖昧で、すっきりしない記述になっている。 |