金石範が直裁に朴正熙大統領を語った言葉は、1975年の『季刊三千里』誌の創刊号での「私は朴正熙を民族の敵と見なしている」であった。
この言葉は「党派ぎらいの党派的ということ」という題目の文章の終わり部分で登場し、もう少し前の部分から引用すると次のようになる。
「党派といえば、すぐ顔をしかめたりする”純粋”主義者もいるが、朴正熙を倒して韓国の民主化を実現する闘いに与しようとするならば、党派的にならざるをえない。いま徹底した反朴の姿勢をとること、これが党派的でなくて何だろう。……この意味では『季刊三千里』を党派的だといえよう。これは決して朴正熙たちをも包み込むような、寛大な雑誌ではない。少なくとも私個人は朴正熙を”民族の敵”と見なしている」と、金石範は朴正熙韓国大統領を直裁している。
この時、金石範は「私個人」と表現しながらも、『季刊三千里』誌が朴正熙たちを包み込む寛大な雑誌ではないと述べている。つまり『季刊三千里』誌も自分と同様に「朴正熙を民族の敵」と見なしているのだと述べているのである。
だが、当時の私は金石範の作品に対する興味が薄かった。だからこの部分を深掘りして読んだ記憶がない。
当時の金石範に関する私の認識としては、渋谷にあった「くじゃく亭」の経営者である高淳日の親友という程度であった。高淳日は済州島出身の一世であり、「高英姫は、我が済州島の高一族の誇り」であったと語る、北韓を支持する在日であった。
詳しく読んでいたなら、金石範を北韓支持の在日の一人と見て、「どうして『季刊三千里』誌の発行に関わっているのだろう」と強い違和感を覚えていた筈である。
*
金石範に強い関心を抱くようになったのは、私が渋谷区本町一丁目の東京工業試験所80年史の編纂に従事してからである。東京工業試験所は京王線で一つ目の初台駅下車3分のところに一万坪の敷地を持つ通産省傘下の研究機関であった。
東京工業試験所は、朝鮮総督府の中央試験所と人事面で深い繋がりがあった。そして「朝鮮」に関わる資料も保存されていた。それらを斜め読みするなかで、自然に植民地期の朝鮮に関わる知識が増えていった。
そして決定的に私の知識が深化したのはNK会を通して花房征夫氏の知己を得たことである。当時、花房征夫氏はアジア経済研究所の図書資料部長を務めており、北韓研究者の集まりのNK会の代表幹事も務めていた。花房征夫代表幹事はNK会に遅れて参加する私に、朝鮮語を解さないのなら資料蒐集で朝鮮研究に関わることができると教示してくれた。
そして金石範に対する認識を深めたのは、金丸信訪朝が私に研究業務として北韓に展開した企業活動の調査を促したためである。この二つが相まって神田神保町の古書店街を歩く頻度が多くなる。神田神保町の古書店街でみつけた南朝鮮労働党の朴憲永党首が在日に指示した文書と、極東コミンフォルムの設立に言及した古本には政府の4・3事件に関わる秘密報告書があり、金石範の著作活動が史実とは異なり、全くのフィクションであることを教えてくれるものであった。
金石範は作家である。その著作活動がフィクションであるのは当然である。だが、文芸雑誌『すばる』の2001年の10月号を読むと、史実に即した作品を発表してきたと述べている。私はそれは違うのではないか、金石範は自身のマルクス主義者としての生涯を、作品に反映させているだけだろうと感じたものだ。 |