三見宿禰は漆部連の始祖というぐらいの情報しかなく、その実体を把握しづらい。留意すべきは、『但馬故事記』に、孝安の世に、新羅王子アマノヒボコ(天日槍)が帰化したとあることだ。アマノヒボコの帰化は、『日本書紀』では〈垂仁紀〉、『古事記』では〈応神記〉に記されている。『桓檀古記』などには、孝安がアマノヒボコだとしている。
『但馬故事記』には、孝安関連の記事も多く、孝安は但馬に由縁の深い人(神)格であることを暗示するのだが、アマノヒボコも但馬に定着した人(神)格だ。もしかして、孝のつく孝昭、孝安、孝霊、孝元の4大王はアマノヒボコであったかもしれない、あるいはアマノヒボコの事績を参考に創作したものではないか、という感触を抱いてしまった。
〔孝霊紀〕
孝霊の事績がどうして伯耆(鳥取県)に?
以前、アマノヒボコ(天日槍)の残像を追って、伯耆(鳥取県)の神社を散策したことがあり、楽楽福神社に巡りあい、その祭神が孝霊で、アマノヒボコのイメージに重なることを突き止めたのだが、大和の地の孝霊が、どうして伯耆の地なのかと不思議に思い、結論として、孝霊の実像は大和ではなく、伯耆にあると思ったものだ。
『記・紀』の”韓隠し”による偽史を拡大再生産 する日本の歴史学
原田常治著『記紀以前の資料による古代日本正史』は、「今まで、日本の古代史、上代史は、故意に造った日本書紀、古事記の二つの人造亡霊に崇られたというか、ふり回されすぎていたと思う。まるでアメリカのディズニーランドや、日本の読売ランドなどにつくつてある”お化け”みたいなもので、こんな人造お化けを、本気で相手にして、その中から何か史実を捜し出そうとすることはナンセンスに近い話である。そんなところから真実の歴史が出てくるはずはない。裏側に回って人造のからくりを見なければ駄目」と述べ、『記・紀』が偽史であることを強調しているのだ。
そのような歴史視点が正しいように思うのだが、為政者や曲学阿世の輩どもによって、『日本書紀』を正史と崇め、その記述を正当化することが、日本の歴史学であるように錯覚していると思うのだ。
本居宣長のように、韓地からの渡来を無視した歴史学からは、まっとうな歴史学が生まれるはずがないし、そうした”韓隠し”の歴史学が、日本の伝統歴史学のようになっていることは、まさに遺憾というほかない。日本の常識は、世界の非常識といわれる所以でもあるようだ。 |