私が北朝鮮問題に関わるのは、金達寿の下を離れて10年近く経ってからである。1990年9月の金丸信・自民党副総裁(当時)の訪朝が契機となった。それは化学技術研究所での公害処理技術の研究からも派生している。
金丸信訪朝は、北朝鮮で発生しているだろう公害の調査を課題とした。朝鮮総督府の施政下で半島北部の鉱山開発は進み、化学工業も発展した。その急速な発展から鉱業公害の発生も予測されたが、日本の敗戦は対策を放置させた。
調査の過程で、日朝貿易会の田中喜代彦氏を知る。田中氏は、当時の日本人として最も北朝鮮を訪れている。その田中氏から「北朝鮮を知るには『金日成著作集』を読め」と言われた。『金日成著作集』を読む過程で、20年間の師弟関係の中で交わした、金日成に言及した金達寿の言葉の数々が思い起こされた。
田中氏の「読め」の真意は、半島北部での戦前の企業活動を知る最高の資料ということであった。読む過程で、いくつもの会社が刊行している『社史』と符合していることを知った。さらに金達寿が『金日成著作集』をほとんど読んでいなかったということもわかった。
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もし金達寿が『金日成著作集』を読んでいたなら、名作『玄海灘』は書けなかったろう。金達寿自身も70年代後半だったか、日本の敗戦時には金日成の存在を知らなかった、と述べたこともあった。
金達寿にとっての民族の指導者は金天海だった。金達寿が生涯を貫き、非転向であったと指摘できるのは、金天海の指し示した「この日本を朝鮮人の住みやすい国にしよう」という信条を貫いたところにあった。決して金日成への「忠誠」にあったのではなかった。
あの『日本の中の朝鮮文化』の旅は、この日本を朝鮮人が住み易くする旅、住み易さを求める旅であっただろうと、評論家の矢作勝美は論じ始めた。古代の朝鮮人を「帰化人」と書くのは史実に反する、と金達寿は強く主張していた。
奈良時代に多く渡来してきた朝鮮人を「帰化人」と表記するのは間違いで、「渡来人」と書き改めるべきだと述べていた。その主張の真意を今にして理解できる。金達寿自身が日本へ帰化したのではなく、海峡を渡って来たひとりの朝鮮人として自身を捉えていたのである。渡来人として自分が生きていることの主張であったのだ。俺は、強制連行されて来た朝鮮人ではない、という主張でもあった。「強制連行」は朴慶植が造語したと金達寿は述べていた。
その在日朝鮮人は「強制連行」されて来た民であったと朝鮮総連では主張している。金達寿が袂をわかったのは当然の結末であった。
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文禄慶長の役で日本へ渡って来た朝鮮人は、薩長土肥などから西日本へ、10万人をはるかに超えている。明治維新の芽は、これら薩長土肥に連行されてきた朝鮮人の文化、持って来た技術が徳川300年間に醸成された結果だと私は結論付けた。
その明治維新を準備する列島西南の産業は、これら半島から「連行」されてきた人々が開いている。例えば、樟脳の採取などである。
薩摩藩が「外貨」稼ぎで大きな役割を果たした「樟脳」は、朝鮮王朝伝来の技術であった。徳川300年間に対応する欧州の上流階級の生活空間は、薩摩の樟脳が大きな役割を果たしていた。その技術は「渡来」によってもたらされたのでなく、「帰化」だと私は断じていたから、金達寿に忌避されたのであろう。
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