最近、韓国メディアで大きく報じられた出来事に、群馬県の県立公園「群馬の森」(高崎市)に設置された朝鮮人追悼碑の撤去問題があります。この追悼碑は2004年(平成16年)4月に設置されたのですが、当時から碑文の「強制連行」という用語の使用に注文がつき、「群馬の森」追悼碑建立実行委員会は碑文を「労務動員」という表現に変えたのでした。
ところが、安倍内閣が発足した12年以降右翼団体が毎年の追悼式での発言中に「強制連行」との表現があったことを取り上げて、日本政府が認めていない政治的行事に当たるとして難くせをつけ始めたのです。14年4月に追悼碑10年延長許可の申請を群馬県が認めず裁判になりました。裁判は一審の前橋地裁で18年、「守る会」が勝訴したのですが、21年には東京高裁で逆転敗訴となり、最高裁でこれが維持されました。県はさらに22年4月に追悼碑撤去命令を出しました。「守る会」は抵抗したのですが、本年2月2日、県は行政代執行により追悼碑の撤去を完了させたのです。
ところで「強制連行」という言葉は、1975年に提訴したサハリン残留韓国人帰還請求裁判で既に使用しています。40年頃の統制的募集から始まり、官斡旋、そして徴用という、いずれの段階でも拒否できない動員を「強制連行」とまとめて表現していたのです。外務省(日本政府)はこの言葉を認知していないと言っていますが、この裁判では被告になった国(外務省)も「強制連行」との表現に特に反論はありませんでした。いずれにせよ、「強制連行」という発言があったことを取り上げて、それが「政治的発言」であるとして追悼碑の撤去まで命令するのは行きすぎです。「表現の自由」という憲法上の権利の侵害になると考えます。
*
実は私は、2004年当時この追悼碑建設を言い出した中山敏雄さんと接触したことがあります。素朴で真面目な方だったという印象でした。現場の「群馬の森」公園へも行き、品位のある追悼碑も見てきました。というのも丁度その頃、私も北海道稚内市の稚内公園内にサハリン残留韓国人の慰霊碑(「記念碑」)をつくろうとしていたからです。
サハリン島がはるかに見える丘にある稚内公園には「氷雪の門」慰霊碑や南極観測隊の「樺太犬」の慰霊碑もありました。幸い稚内市長からその公園の真ん中の立地の良い場所を提供してもらうことになり、さらに100万円の寄付の約束もしてくれたのです。私たちの碑は、韓国の彫刻家、国立公州大学の金敬華教授に頼み、デザインも出来ていました=図=。05年5月に建立するよう工事業者と打合せをする運びになっていました。
ところが、この建立実行委員会で私と共に共同代表になってくれた五十嵐広三(元内閣官房長官)がこのままでは右翼からの攻撃があるかもしれない、ペンキを塗られたり、爆破されたらおしまいだ、地域の自治体の賛同が重要だというのです。
五十嵐さんは旭川市長時代、自ら関わったアイヌ像を爆破されたことがあったのです。このような心配をするときりがないだけでなく、上記のように地元自治体の稚内市が全面的に協力姿勢を見せてくれていたので、是非ともサハリン韓国人慰霊碑を建立したかったのですが、五十嵐さんを説得できず、結局ボツとなってしまったのはかえすがえす残念なことでした。
この慰霊碑の発起人である樺太帰還在日韓国人会の李義八会長も落胆していました。その李義八会長も20年(97歳)に亡くなりました。サハリンの被害者1世の存命者は極めて少なくなくなっています。
| | |