「古代史の謎」をテーマにあれこれ書いているが、今回は韓半島と日本列島を結ぶ動物の古代史だ。
かつては石器時代や縄文時代に馬が生息していたという説があったが、今は魏志倭人伝の「牛馬なし」が正解になったようだ。日本列島に馬文化が始まるのは4世紀末から5世紀初頭が定説だ。馬は韓半島から運ばれてきたわけだが、小型馬と中型馬の2種類が入った。小型馬は今の江原道あたりを領土にしていた〓族の名産であった果下馬(果実の木下を通れるほど小型の馬)の系統で、今もいる対馬の対州馬や南方のトカラ馬がそうではないか。
中型馬というと、今のサラブレッドの祖先と言われるタルバン種とモンゴルの馬がアムール川あたりで出会い混血。ツングース民族の馬文化を生み、扶余や高句麗から百済や新羅、加耶へ。そして、ずいぶん遅れて日本列島にやってきた。
到来が遅れたのには理由があった。馬は軍事的最新鋭兵器。百済や加耶は馬やその技術の国外流出を恐れていた。しかし強力な騎馬軍団で南下してきた高句麗によって両国は国家存亡の危機を迎え、打開策として目を付けたのが友好的関係にあった倭の武力。馬と、それに関する技術を供与して助太刀してもらおうと考えたからだという。
それにしてもあの時代の倭の外洋船は丸木船を土台に、板を組み合わせた準構造船。そんな小さな船に神経質な馬をどう乗せ航海したのだろうか。暴れれば沈没必至だ。しかも10頭や20頭運んでもダメ。近親交配を起こさず繁殖するため数百頭が必要だというではないか。準構造船で大人の馬を3~4頭乗せるのは無理そうだが、仔馬なら少しは安全に多く運べたかもしれない。233年の段階で高句麗から呉に馬80頭を運んだという記録があるから大陸には馬の海上輸送技術もあったわけで、百済が大船で運んでくれたのであろうか。この点、まったく謎である。
ちなみに馬の年齢を人間の年齢に例えると、馬1歳=人8歳。18か月=12歳。2歳=16歳。3歳=18歳。4歳=21歳。5歳=23歳。6歳=30歳……だという。仔馬でもすぐに大人になる。繁殖力は高く、人間の三代の間に馬は1万頭以上になると計算している専門家もいるほど。このため列島に馬が入って100年もたたず、10頭とか40頭を逆輸出して百済を援助したという記録が残る。
やはり列島には牛もおらず古墳時代に韓半島から渡ってきたらしい。牛の祖先は”ヨーロッパ原牛”(17世紀に絶滅)だが、それとインド原産で背中にこぶがある”こぶ牛”が中国の北部で混血。それが韓半島に入り、日本列島に渡って来たという図式らしい。混血によりこぶは消えたが、インド牛の黄色は残って韓半島の牛は今も黄色だ。体型的にはアジア各地の牛の中でヨーロッパ原牛に一番近く、日本の牛も同様だという。牛は馬と違って座ることができるから船に載せることは馬より容易だが巨体。これもどうやって海を越えたか謎である。
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話は変わるが江上波夫氏の「騎馬民族征服」という有名な説があるが、どういう方法で馬を運んできたかには触れていない。騎馬民族には羊・山羊・牛・馬・駱駝という五畜がある。一方、日本書紀には六畜という言葉が2カ所出てくる。それは羊・牛・豚・馬・犬・鶏である。古代の列島の家畜に羊が入っているのが意外だが、騎馬民族的というより農耕民族的な要素が強い。
それはともかく、まだまだ韓半島から列島に来た動物がいる。日本書紀のなかにある百済や新羅からの貢物や献上品リストを見ると面白い。金銀・ギヤマン類は外して動物だけを取り上げると、珍しい動物を見せたら喜び驚くだろうと、推古朝時代に百済から羊をはじめ駱駝やロバ、白雉が贈られている。斉明、天智、天武朝時代にも新羅から駱駝やラバ・犬・馬(細馬とあるがどんな馬だろう?)、孔雀・オウム・水牛などが来た。さすがに皮はあっても虎はいなかったが、当時の列島にはいない珍獣オンパレードである。古代の天皇は外国の使節団の前には決して姿を現さなかったらしいが、動物だけは見に行ったことだろう。
贈られた動物を見ると、百済や新羅がいかに国際的に広く交流・交易していたことがわかる。日本では奈良時代に長屋王が鶴を飼っていたと驚いているが、そんなもんじゃない。新羅の王都には動物園や植物園があった痕跡も見つかっているというから驚く。
古代、小さな船(当時の倭は周辺国の中で最も船舶技術が遅れていた)で馬や牛をどうやって運んだかは、私にとって謎中の謎だが、古代人の叡智はそれを成し遂げたわけである。そして古代の倭と韓半島の人々は動物を介した交流で結ばれていることがわかる。 |