『日本書紀』を正史として学んだ日本紀講筵と竟宴
長髄彦は磯城郡の登美邑を本拠として神武軍と戦ったと『日本書紀』は記す。すなわち、長髄彦は、「国を奪おう」とする神武軍を迎え討ったのだ。生駒山麓の孔舎衛坂での第1次防衛戦は成功したのだが、熊野回りで侵寇してきた神武軍に立ち向かった第2次防衛戦では、最も信頼すべき甥のウマシマチの、それはないだろうという裏切りによって、哀れにも敗北してしまった。
神武軍に敗北した兄・磯城は、長髄彦か、あるいは近親者を指すことになるという。その長髄彦は銅鐸祭祀の蛇神信仰種族だという説がある。磯城は辰城の国だという驚くべき論考もある。
一方、『日本書紀』は、葛城邑に赤銅の八十梟帥がいると記す。高尾張邑にはカグヤマが蟠踞していたのだが、葛城へ地名変更したのは剣根で、神武から、葛城国造を賜った。また、高尾張邑にいた土蜘蛛は日置氏で、高麗国人伊利須意禰の後裔氏族だという。
ところで、修史された『日本書紀』を正史として、国家権力によって、陰に陽に徹底して認識させようとしたと思われる。その証左が、日本紀講筵と呼ばれる平安時代前期からの宮中行事で、『日本書紀』を正史とする講義や研究だったと思われる。
弘仁3年(812)からの講筵は、30年おきに1回開催されたという。講師は歴史に通じた者らが任命され、数年かけて全30巻の講義を行うという長期かつ大規模な計画であったという。全ての日程が終了した後に大規模な竟宴(宴会)が開催され、『日本書紀』の故事・逸話に因んだ和歌、すなわち「日本紀竟宴和歌」が披露され、恩賞として禄を賜ったという。
そのような行事によって、『日本書紀』の内容がそのまま正史として日本全国に拡散、強要されたと思われる。異を唱えた者は、命にかかわる脅迫や暴力などを受けて沈黙せざるを得ない状況に追い込まれたのだろう。曲学阿世の輩どもも、そうした人士を舌鋒鋭く非難中傷したのだとみられる。
しかしそれでも、真実を求める人士らは偽史を強要する国家権力に対して秘かに反発し、『旧事本紀』や『但馬故事記』などを遺し、あるいは門外不出の秘伝として『海部氏系図』などを残したと思われる。
言論の自由がもたらされた現代では、『記・紀』を偽史だと高らかに叫ぶこともできるが、それさえ100年も経っていない。『記・紀』が偽史であるにもかかわず、2000年近くも正史としてまかり通ってきた背景には、国家権力による隠蔽作業があったのだとしか考えられない。
〔懿徳紀〕
懿徳=出雲醜は葦原醜男(大己貴)?
大日本彦耜友こと懿徳が「耜」の語を含み、味耜高彦根も同じ語を含むことから、アジスキタカヒコネと何か関係がありそうな感じもするのだが、アジスキタカヒコネは、葛城山の地主神とみられ、大和の鴨君の奉斎する神であるという。 |