江西省人民検察院「文化」に掲載された『愛』
中国の『愛』には心がない
中華人民共和国で使用されている簡体字(正式には簡化字)の『愛』は、図(右端)のように表記する。『心』を棒線にしてなくしてしまったのだ。同じく『優』は「亻」(にんべん)+「尤」に、『恥』は『耻』となった。繁体字から簡体字に変更した時の選別者たちはつくづく『心』が嫌いだったようだ。
世界最古の漢字辞典といわれる『説文解字』という書がある。この書は、後漢の永元十二年(一〇〇年)に許慎が叙を記し、建光元年(一二一年)に許慎の子の許沖が安帝に奉った。この『説文解字』が画期的だったのは、漢字の分類に『部首』という概念を導入したことによる。以来、この『部首法』によって漢字は分類されてきた。
『愛』は部首法では『心部』に分類される。その理由は『愛』の漢字の成り立ちが『心』にあったからである。
『愛』は、音を表す「旡+心」(図の篆文・隷書を参照)と、意味を表す「夊」による形声文字。「旡」が満杯でふさがっている様子を表し下に「心」がついて「胸がいっぱいになる」という意味。「夊」は足を引きずっている様子を表している。これらを合わせて「足を引きずるほどの胸いっぱいになる切ない想い」となる。
『愛』は、実に的確に『心』の状態を表現した文字なのである。然るにその完成された文字から『心』を無理矢理に引き剥がしてしまった。さて、今後の中国の漢字辞典では『愛』の部首をなんとするのだろうか。
漢字絶滅思想の落とし子
こんな有様なので、現代中国の漢字、即ち簡体字はすでに漢字の原意を留めていない。表意文字である漢字から原意を取ってしまえば、それは単なる記号に過ぎない。表音文字としても役に立たず、表意文字としても意味を成さなくなれば、その文字にはどんな名称を与えれば良いのだろうか。
それでは、この無謀な簡素化はどのような経緯で実行されたのだろうか。中華人民共和国が建国されたのは一九四九年十月。その直後の一九五一年に毛沢東は矢継ぎ早に文字改革を指示。その翌年に「中国文字改革研究委員会(後に中国文字改革委員会)」が設立され、一九五六年に『漢字簡化法案』、一九六四年には『簡化字総表』を強行、翌年に『印刷通用漢字字形表』が公布され、計六一九六字の字形、筆画、筆順の具体的な規定を実行した。この強行は、文化大革命の成せる技であった。
この流れの根底には、そもそも漢字を絶滅させるという強い意思があった。基本的な考えは日本に伝わったマルクス主義を同根とする『ソビエト言語学』のもので、「革命の発展段階」から国際共通語としての「表音文字」に移行するのであり、「表意文字」である漢字は「劣った言語」とされたのである。
ソビエト連邦はそれを実行に移し、モンゴル語を強制的に滅ぼし、キリル文字に置き換えさせた。毛沢東はこれを中国でも実行に移すことを指示したのであった。どうせ最後には漢字を絶滅させるのである。だから漢字の簡略化は適当に行えば良かったのだ。その成れの果てが現在の簡体字なのだ。
そのような思想を明確に受け継いだ中国文字革命委員会は一九七七年、更なる簡化を実現させようと『第二次漢字簡化法案草案』を発表した。しかし、文化大革命が失敗と断定された以上、その流れを汲むこの簡化案も消滅することになった。ここで漢字絶滅思想は水際で食い止められ、二〇一三年に制定された『適用規範漢字表』の八一〇五字に収まったのだ。とはいえ、毛沢東は率先して簡体字を使用した訳ではない。歴代の国家主席も平然と繁体字の揮毫を書いていた。
その理由は簡単で、中国では征服する側と征服される側の差は歴然としており、民には文字を伝えようとしなかった。簡体字においてもそれは同じで、意味不明な簡体字は国家主席たちにとっても誇りを持てる文字ではなかったのである。 (つづく) |