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2023年11月21日 13:07
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いま麹町から 26 髙木健一

 私は東大闘争世代です。東大安田講堂攻防戦は1969年(昭和44年)1月18・19日でした。
この時、私は東大正門前の下宿屋(カレー屋の2階)に住んでいた法学部4年生でした。東大法学部といえば官僚養成大学としての役割を果たしてきたことはわかっていましたが、東大闘争の洗礼を受け、「造反有理」などの看板を毎日見て議論していた私は、官僚コースや大企業コースは思いもよらず、残る進路は弁護士コースだったのです。

その学生時代の2年先輩に江田五月さん(弁護士、元参議院議長、2021年7月28日死去)と横路孝弘さん(弁護士、元北海道知事、23年2月2日死去)がいました。難解な用語を駆使して2人が社会分析をしているのを、横で聞いていた記憶があります。
私は司法試験を受けて、1971年(昭和46年)から25期司法修習生となるのですが、そこで大学闘争(全共闘)経験者の多くは「反戦法律家連合」と名付けたグループをつくりました。シンパも入れると約50人(修習生全体で約500人の10%)と、この頃の修習生の中でも大きな勢力をつくりました。
みんな弁護士になり、当時の社会事件や学生運動の逮捕者、三菱重工爆破など爆弾テロ事件、スモン薬害、さらに破防法などの裁判の弁護団に加わりました。私も破防法裁判の弁護団に入り、その2年目の74年1月14日、東京神谷町の農林中金ホテルで会議中、革マル派の襲撃にあっています。
突如、屈強な若者が3~4名で鉄パイプを手に乱入し、弁護団会議に参加していた中核派の活動家だけでなく、十数名の弁護士に対して手当たり次第鉄パイプで殴りつけてきたのです。私は部屋の角の隅に折り重なるように逃げたのですが、乱入者が折り重なった人たちを外側から1人ずつはがし、滅多打ちにしている悲鳴が聞こえる恐怖といったらありません。
私の順番はいつ来るのか、次か、その次かとの恐怖、時間の流れがこんなにも遅く感じたのは、後にも先にもありません。もうすぐ私の番かと感じたその瞬間、襲撃者は突如一斉に退去したのです。
井上正治弁護団長や多くの弁護士が腕や足を折られ、顔面や歯を骨折した人もいました。それでも誰一人として破防法弁護団をやめる人はいませんでした。

ところで、私が同僚の弁護士と違うところは、サハリンの残留韓国人問題などに関わったことです。私が73年に弁護士を始めたその年にサハリンに残留した韓国人が多くいると聞き、樺太帰還在日韓国人会とともに残留韓国人の永住帰国と家族との再会を目指すようになったのです。
サハリンから委任状を取り寄せ、弁護団を結成し、75年には帰還請求の裁判を提起しました。このような私の活動に対して、上記の反戦法律家連合の仲間からも異論が出ました。
当時(75年)は、社会主義国家ソ連はまだ希望のある国とみられ、韓国は軍事政権下の評判の芳しくない国でした(金大中事件は73年8月8日でした)。そのためか、私の友人の弁護士の1人は社会主義ソ連のサハリンから軍事独裁国家の韓国へ帰すのは時代に逆行するのではないかというのです。
しかし、私は、どんな政治情勢であろうとも夫婦が再会し、親子が再び一緒になるのは人権で保護されるべき基本ではないかと反論したのを覚えています。実際に、その後のソ連の社会主義は崩壊し、韓国は民主化し、いままで3000人以上の永住帰国が実現したのは、最初のこの信念が結果的に正しかったことを示しています。
また、私が韓国人の人権問題を扱うことを不愉快に思う人もいます。その話は次回にしたいと思います。

 

2311-22-05 5面
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