貿易会社「グローバル」起業
金聖大は岐路に立たされていた。会社員としての生活を続けるのか、独立して起業するのか。悩んだ末、金聖大は後者を選んだ。
しかし、衝撃的な情報が飛び込んできた。共に起業するはずの友人が会社を売却してしまったのだ。
Jキマトライ社にはすでに辞表を提出していたため、一夜にして「はしごを外された」状態となってしまった。金聖大はやむなく貿易会社K(仮名)で会社員生活を続けることにした。その時、見出した商材が「ウィッグ」だった。世界的にもウィッグ人気が高まりを見せており、日本でも流行るものと見込んだ。聖大は、ソウル通商などの韓国メーカーが生産したウィッグを輸入し日本で販売した。通常の利幅は25%で、女優をモデルに起用した商品に至っては50%に達することもあった。しかし、日本での流行はあっけなかった。1年も経たないうちに、急激に需要が落ち込んでいったのだ。
「日本には米国のようなパーティー文化がありません。しかも高温多湿な気候はウィッグと相容れなかったのです」
金聖大は織物の貿易でも才覚を発揮した。服の生地を韓国から輸入し、ボタンなどワイシャツの副材料は日本から韓国に輸出する、といった形で、韓日を往来しながら互いが求めているものを充足させた。
このように着々と実績を積み重ねていったところ、万年赤字だったK社は黒字へと転換した。これによってK社の社長は金聖大に対し、給与の増額と役員への昇級など、各種の好待遇を約束した。
しかし、約束が守られることはなかった。薄給に耐えつつも、働きがいは日々失われていく一方だった。「いよいよ潮時だ」。起業を決意し、K社を退職する。
「生野区にあった妻の実家が経営する会社のスペースを借りて起業しました。社員は自分1人なので、電話は転送されるよう設定し、私が不在の時はその会社の社員が電話を受けてメモを残してくれました」
昭和51年、1976年。貿易会社「グローバル」の歴史が幕を開けた。「これで我々5人家族は暮らしていけるのだろうか」。不安と期待が入り交じりながらも、2社で経験を積んだ金聖大はベテラン貿易マンへと成長していた。
「メインの商材は『ポリエステルフィルム』でした。当時の韓国にはその素材を扱う技術が存在していませんでした。簡単に言えば、ワイシャツの襟芯を扱っていたのです」
メーカーやフィルムの厚さによって価格はバラバラだった。そうした市況をキャッチアップし、輸出・輸入双方の企業ニーズに合わせて営業を展開した。
例えば、厚さ250ミクロンの一般的なフィルムと、350ミクロンの高級フィルムで価格の開きがある場合、その中間の厚さとなる300ミクロンの商品を新たに生産するよう働きかけた。価格は一般的な商品と高級品の中間程度に設定した。その結果、輸出業者は売上げが増え、輸入業者は調達単価を抑えることができた。韓日双方の企業に利益として還元させることができたのだ。
「ポリエステルフィルム」を商材として選んだ金聖大の目は正しかった。フィルムはカセットテープやビデオテープ、フロッピーディスク、テレビの液晶画面、携帯電話など、生活家電の至るところに使用されている素材だった。当初はワイシャツの襟に使用されるだけの素材だと思われていたポリエステルフィルムは、いざ蓋を開けてみると「金の卵を産むニワトリ」だったのだ。
(ソウル=李民晧) |