 | 名古屋での朝鮮通信使との相互交流 | 東アジアの国々が育てた漢字文化圏
漢字は歴史を通じて変遷を繰り返し発展した。その変化には中国以外の国々の文化が大きく加担している。東アジアの国々が、漢字文化圏ともいう共通文化圏を形成し、相互に文化を尊重していったのである。
例えば、江戸時代の蘭学者である宇田川榕菴は『舎密開宗』を著し、ドイツ語などから新たに漢字熟語を作り出した。元素、金属、酸化、還元といった化学用語、酸素、水素、窒素といった元素名、細胞、属といった生物学用語、その他、圧力、結晶、沸騰、蒸気、分析、物質、法則などなど、その多くの用語は、そのまま東アジア全体で現在でも使用されている。
また明治には政治用語なども盛んに漢字に翻訳された。現代中国の国家名にも使用されている『人民』も『共和国』も、そして『共産主義』という言葉さえも全て和製熟語である。また、労働の『労』や『働』は日本で作られた国字だ。そうして創作された漢字や漢字熟語は、現在も批判なく至極普通に東アジアで使用されている。漢字は相互文化の証そのものなのだ。
言語がまったく違う東アジアの国々。これらの国々が古より国際交流を重ねることができた理由。それが漢字の功績なのである。イエズス会宣教師のマテオ・リッチは、『中国キリスト教布教史』の中で次のように述べている。
「互いにまったく言語を異にする多くの国々が、同じ文字を用いているために、文章や書物を理解できるのだ。事実、この支那の文字は、互いに言語が異なり、一語も理解しあえない、日本、朝鮮、女真、琉球でも共通なのである。それゆえ、相手国の言語を習得しなくとも、文字に書き表せば容易に理解しあえるのだ。同じ支那のなかでも、地方ごとに、ひとつ、あるいは多くの場合、ひとつ以上の固有言語があって、互いに理解できないことがある。だが、文字や書物はどこでもまったく同一である」
彼は、実に的確に漢字の有用性を見抜いていた。
心を通わせた漢字の善隣外交
かつて江戸時代に朝鮮通信使というものがあった。この善隣外交には通訳がそれほど必要ではなかった。筆談すれば交流できたのだ。一六八三年に発刊された『和韓唱酬集』には通信使滞在中の記録として、木下順庵が成翠虚と心を通わせた詩が残されている。
「文談筆語各眉を揚ぐ。情は洽ねし高堂相対する時。折木扶桑三万里。錦嚢収拾清詩を入る。(訳:筆談で心の通じるのを覚え、心が晴れました。立派な館でお目に掛かっていると親愛の情があふれてきます。お国と日本は三万里も隔たってはいますが、錦の袋に清らかな詩を一緒に入れましょう)」と。なんと心温まる交流ではないか。
雨森芳洲と『海游録』の著者である申維翰の交流記録には、ちょっと楽しい逸話も残っている。申維翰は小中華思想の持ち主で支那が絶対の堅物。独自文化を花開かせた日本を最初は大嫌いだった。何かと悪口を重ねるのだが、ハングルや中国語など多国語に精通する芳洲はうまく受け流す。時には大喧嘩もするのだが最後はけっこう仲良くなるのだ。芳洲は申維翰にこう語る。
「日本人の学んで文をなす者は、貴国とは大いに異って、力を用いて甚だ勤めるが、その成就はきわめて困難。公は、今ここより江戸に行かれるが、沿路で引接する多くの詩文は、必ずみな朴拙にして笑うべき言だと思います。しかし、彼らとしては、千辛万苦、やっと得ることのできた詞なのです。どうか唾棄されることなく、優容してこれを奨くしてくだされば幸甚です」この一言で然しもの堅物申維翰も楽しく道中江戸へと向かったのだ。
さて、緊張を重ねる日韓両国。漢字の筆談をやっていれば少しは仲良くなれたと思うのは筆者だけであろうか。(つづく)
水間 一太朗(みずま いちたろう)
アートプロデューサーとして、欧米各国、南米各国、モンゴル、マレーシア、台湾、中国、韓国、北朝鮮などで美術展企画を担当。美術雑誌に連載多数。神社年鑑編集長。神道の成り立ちと東北アジア美術史に詳しい。
|