秋の夜長は読書が楽しみ。今回は韓日の古代史に興味のある人のために、私の愛読書を紹介したい。韓日の濃密な関係がこれでもか、これでもかと出てくる金達寿(キム・ダルス)氏の『日本の中の朝鮮文化』だ。
金達寿氏に関しては本紙に連載中でもあり読者にはおなじみと思うが、この全12巻におよぶ力作は渡来人の足跡を求め、その土地土地の地誌、研究書、由来書や伝説を徹底的に研究。実際にその地に足を運び書き下ろした書。旧国名により北は陸奥(むつ)・出羽(でわ)から、南は肥後(ひご)・日向(ひゅうが)・薩摩(さつま)までの44国以上を探索している。
大陸から倭(日本)への渡来は縄文晩期から始まったが、弥生時代から奈良時代までの約一千年間本格化した。京都大学の上田正明氏によれば朝鮮半島からやってきた大きな波は四つの時期に分けられるという。
■第一波 弥生前期(紀元前200年)頃。倭人の居住地は半島南端にもあり、半島との自由な往来により青銅や鉄器が伝わった。
■第二波 5世紀前後。高句麗の南下侵略のあおりで倭に逃れた人も多かった。渡来人が技術や文化面で優れていたため支配者層に取り込まれエリート化していくのもこの時期。
■第三波 5世紀後半から6世紀初頭。百済・新羅・高句麗との交流が盛んになり多くの技術者が渡来。倭と密接だった加耶諸国が新羅の侵攻を受けたため、祖国に見切りをつけた渡来人が多かった。
■第四波 7世紀後半。百済と高句麗が滅びたため亡命・難民の大量渡来があった。百済第二位の達卒(だちそち)の官位を持つ亡命者が70人もいたという。貴族や知識人は手厚くもてなされたが、最新の技術を持って渡来した技術者は不幸であったようだ。第二・第三波で渡来していた技術系渡来人に”俺たちの立場がなくなる”と疎まれ、一般渡来人と共に多くは農業開拓者として東国の各地に散った。
このように多くの渡来人が列島にやって来たのだが、その数はよくわからない。人類学的には”無視しうる程度”という説がある。その理由としては、日本人の身長が弥生時代に急に高くなったが、それ以後連続して低くなったのは、背の高い渡来系弥生人が少なかったという解釈だ。一方、畿内の諸氏族の出自を調査した平安時代編纂の「新選姓氏録」によると全1182氏のうち諸蕃(渡来系)は324氏。全体の三分の一近くを占めている。渡来系氏族の多さを表わしているのだが、これは自己申告で当てにできないという意見もある。今、「私は英国人貴族の家系です」といえば一目置かれるかもしれないが、古代でも半島の出自であることは大きなステータスだったという説だ。
大量の渡来人が来たと言うのは、人類学者の植原和郎氏。紀元前3世紀から7世紀にかけて渡来し、その子供を含めた数を267万人と推定。国立民族博物館の小山修三氏は、弥生・古墳時代の人口増加は世界平均の10倍。その要因は渡来人の影響だとしている。
行政面からも渡来人の数の多さがうかがえる。倭(日本)最初の戸籍は540年に作られているのだが、渡来人が対象だった。思わぬ数の渡来人に驚き、正確な数を把握しようとしたのだろう。
結局のところ渡来人の数は水掛け論になってしまうのだが、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』を通読するとスッキリする。まさに眼から鱗。日本全国津津浦浦は渡来人だらけ、足跡だらけであるのに驚いてしまう。
全12巻もある。ここでは極々一部しか紹介できないが、記憶に残る部分を記しておく。
 | 新羅から倭への航海には越前、越中ルートがあった。大きな白山は海上からよく見えたであろう。危険な航海が終えられると、霊峰になったに違いない | ■武蔵 第四波で渡来した人たちは関東平野に大量に入れられた。沼地が多く水田になりにくい地であったが、灌漑技術を持った渡来人がどんどん用地を広げていった。これが高句麗武者の流れを汲んだ坂東武者となっていくという記述は眼から鱗であった。
武蔵は朝鮮語のモシシ(芋(からむし)の種)からきているという説にも驚いた。
今から1250余年前に高句麗系渡来人が武蔵に移され明治まで埼玉県に高麗(こま)郡が置かれ、現在も高麗神社があることは有名だが、同時期、南隣に新羅郡まであったことは知らなかった。今の練馬区の一部から保谷、志木、朝霞が新羅郡であったらしい。山梨県に広くあった巨摩郡も当然高麗だろう。
■美濃 私の故郷、岐阜の北方には白山があり、その山を祀る白山神社(白髭神社も多い)が沢山あるが(全国に2700社)、白山は”シロヤマ”と読むのが正解で古代朝鮮では新羅を斯羅(しろ)と言っていたことからきているらしい。そのあたりのいわれを詳細に語っており勉強になった。東京・文京区にある白山も同様の理解で良いのだろうか…。
ぜひ金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』の中から自分の住んでいる地を選んで読んでもらいたい。面白いです。
講師:勝股優(かつまた ゆう) 自動車専門誌『ベストカー』の編集長を30年以上務める。前講談社BC社長。古代史万華鏡クラブ会長。奈良を愛してやまない。 |