1500年前の木簡が発見された。木簡に書かれた文字は5世紀末頃、ソウルの地で暮らしていた高句麗人が書いたものとみられている。
木簡は、まだ製紙技術がない時代に、古代の韓半島、中国、日本、エジプトなどに暮らす人々が木片を平らになめし、紙の代わりとして墨で文字を書いた記録文書だ。
漢城百済博物館によると、ソウル市松坡区芳夷洞のオリンピック公園内にある夢村土城から、城内に暮らしていた5~6世紀の高句麗人が書いたと見られる木簡1点を見つけたことを明らかにした。この木簡は、城跡の中にある集水池(井戸)の泥に埋まっていた。縦15・6センチ、横2・5~2・7センチ、厚さ最大0・4センチで、片面に10~13文字程度の輪郭が見える。韓国の研究者たちが木簡を分析したが、文字は損壊と変形が激しく、実態を把握することができなかった。
百済から新羅にかけての木簡はこれまでに約200点が発見されたが、高句麗時代の木簡は初めてで遺跡としての価値が高いというのが博物館側の意見だ。木簡は古代の行政体系や生活像をリアルに伝えるための極めて貴重な史料と言える。歴史学者たちは木簡について「古代世界に直接向き合うことができるタイムカプセルのようだ」と語る。ソウルは古代韓国の三国時代当時、百済(西南部)と高句麗(北方)、新羅(東南部)間で激しい領土争いが繰り広げられた地だ。
ソウル夢村土城の場合は1~4世紀頃、百済が近隣の風納土城と共に王城として使用していた遺跡だ。しかし475年、高句麗の長寿王によって王城が陥落。551年に百済・新羅連合軍が土城を奪還するまでは高句麗軍隊と官吏たちが暮らしていたと伝えられている。
漢城百済博物館は、出土地の周辺で高句麗土器が多数発見され、集水池の築造の木材を放射性炭素年代測定法で分析した結果、5世紀末から6世紀初めというデータが出たため高句麗人の木簡と判断した。
1990年代以降、韓半島で発見された木簡はいずれも6~7世紀の百済人や新羅人が書いたものであることが判明している。新羅の木簡は慶尚南道咸安の城山山城と慶尚北道慶州の新羅王城跡などで出土している。百済の木簡は、忠清南道の扶余の官北里などから出土した行政文書木簡「九九」と「論語」などが知られている。(ソウル=李民晧)
写真=1500年前の高句麗人の木簡(出土当時及び洗浄後の様子) |