ログイン 新規登録
最終更新日: 2022-09-28 11:45:26
Untitled Document
ホーム > ニュース > 文化
2022年01月01日 00:00
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
古代史万華鏡クラブ 「海を渡った先人達」
紙上勉強会 新春特別企画~新羅の文武王

講師:鈴木 惠子

海龍王と倭国の深い繋がり

【文武王の海龍伝説】
新羅の第30代・文武王(金法敏)は、東海の大石の上に葬ると遺言して、681年7月1日に崩御したとされています。三国史記によると『庫門の外庭で、西国の形式により、火を以って焼き葬る』とあり、初めて火葬された王として有名です。現在、その陵墓は慶州東南に位置する甘浦の奉吉海岸から約200メートルの沖にある「大王岩」に確定されています。
また、三国遺事の「寺中記」によると『文武王が倭兵を鎮めようとして感恩寺を創り始めたが、完成しないうちに薨じて海龍となった。そこで、その子の神文王が、その即位二年に完工した』とあります。三国遺事では、文武王が薨じた後に海龍となったという説話を伝え、海龍となった文武王が倭国の攻撃から新羅を守っていると信じられています。実際、新羅の金王朝が成立した356年以来、新羅にとって最も脅威となっていた国は、まさに倭国でした。
文武王は、武烈王(金春秋)の長男です。定説では、金庾信の妹・文明夫人を母として626年に生まれたとされています。しかし私見では、金春秋の従姉妹・宝羅を母として621頃に生まれ、宝羅は法敏を出産後に亡くなったようです。
660年に父の武烈王、金庾信、唐の将軍・蘇定方らと共に百済討伐に参戦して大きな功績を挙げ、661年の武烈王の崩御後に新羅王に即位しました。
その後、唐による韓半島支配を何とか排除しようと腐心しましたが、676年11月に、所夫里州・岐伐浦(扶余郡白村江)での戦いで唐を破り、ついに半島から唐を撤退させることに成功しました。

【互いに協力し合った文武王と天武天皇】
実は、唐との戦いの勝利に日本も関わっていた可能性があるのでは、と考えています。
新羅の文武王(在位661~681)は、日本の天武天皇(在位673~686)の在位中に、日本へ10回もの使者を派遣して調を献上するなど、非常に親密な関係にありました。それに対し、天武天皇は唐には一度も使者を派遣していませんが、新羅には5回派遣しています。
そんな天武天皇は、即位前の近江朝廷との壬申年(672年)の戦で、新羅の文武王に援軍を要請したと推察しています。
その理由として、当時の日本には、倭王・讃(百済の腆支?)以来、百済からの移住者が多数住み、百済国の滅亡後にも多くの人々が移住して来ていたので、近江朝廷側の兵力は十分だったと思われたのに対し、高句麗人の天武天皇側の兵力はごく僅かで、戦いでの勝ち目はほとんどなかったと考えられるからです。
しかし、当時の新羅には、天武天皇の親族の淵浄土、その子・安勝などの多くの高句麗遺民が居住していました。淵浄土は666年に3500人余りを伴って新羅に投降し、安勝は668年の高句麗滅亡後に史冶島にいた時に発見されて新羅王に保護され、後の金馬郡の地域に居住させられて高句麗王(後に報徳王・在位670~684年)に封ぜられています。
このような情報を得ていたと思われる天武天皇は、新羅国内にいる高句麗系の人々に協力を求めるとともに、百済系政権を倒すことへの理解を新羅王にも求めて、それに賛同した新羅王は、多くの新羅兵を日本に派遣することに同意したと思われます。
天武天皇が挙兵を決意したという672年5月以前には、新羅からの援軍がすでに東国に集結していたのではないでしょうか。
天武天皇紀(上)の672年11月24日に『新羅の客人らを筑紫で饗応して船一隻を賜わり、客人らは帰途についた』という記事がありますが、その日は大友皇子が自死して天武天皇が勝利した、ちょうど4カ月後のことでした。天武天皇は新羅王への深い感謝を込めて、多くの貢物を満載した船を贈ったということのようです。
新羅の援軍を得て壬申の戦に勝利した天武天皇は今度は、日本から新羅に援軍を派遣して唐の排除に協力したようです。
新羅が唐を打ち破った岐伐浦での戦いの直後と思われる676年11月3日の日本書紀に『新羅は、金清平を遣わして政を報告し、調をたてまつった』と記されています。「政」とは唐との戦いに勝利した報告であり、調は援軍派遣のお礼だったと推察されます。
互いに協力し合っていたと思われる新羅と日本ですが、油断すると、すぐに攻め込まれて国を乗っ取られかねないのが世の常です。文武王も、天武天皇(淵蓋蘇文)という高句麗の武将を警戒していたのかもしれません。
韓半島の統一が達成された5年後の681年7月1日、文武王は61歳で崩御したと思われますが、数え61歳は還暦(干支が一巡し誕生年の干支に還ること)に当たります。文武王は、伝説のように海龍に生まれ変わり、倭国の攻撃から新羅を守ったのでしょうか。

【海龍となった文武王】
海龍という言葉から、海龍王寺がとても気になっています。海龍王寺は、平城宮跡の東側にある藤原不比等邸跡の東北の隅に位置しています。境内から飛鳥時代の古瓦が出土していることから、平城京遷都以前に何らかの前身建物が存在していた可能性が指摘されています。
私は中臣鎌足=金春秋と推定しましたが、文武王は金春秋の長男です。そこで、鎌足が賜った藤原の姓が付けられた「藤原宮大極殿」と、文武王に関連していると思われる「海龍王寺」を線で結んでみました。すると、まさに南北の両極を指し示したのです。
この南北の線を両極方向に更に延ばした線上には、北から、御神島・山科陵・海龍王寺・藤原宮大極殿・文武天皇陵・玉置神社などが存在しています。玉置神社は、南北の線から多少東にずれていますが、奈良県吉野郡十津川村の険しい山中にあり、龍神伝説のある神社です。
文武王の「海中墓」から真東の方向に線を引くと、御神島から北に8キロほどの地点と直角に交差します。この交差した地点と、文武王の海中墓、玉置神社の三地点を結ぶと「20度70度90度」の直角三角形になります。
この形は、非常に強い関連を示しているとともに、70度の角度は、最強の霊力を発していると考えられます。このことについて少し説明すると、南北の軸を中心に東から西に回る時、10度・20度・30度・40度・60度の角度の場合、1周で元の場所に戻って来ますが、70度の場合は、7周で元の場所に戻って来ます。50度は5周、80度は2周です。つまり、70度は、7周という最も多く回転する角度なのです。

【藤原政権の成立】
文武王は日本の地に入り、異母弟妹の、定恵・鵜野更羅姫(天武天皇の皇后)・不比等の三人と協力して新羅系の藤原氏の政権を打ち建てたようです。
なお、天武天皇の皇后・鵜野更羅姫は、中臣鎌足(金春秋)の娘であろうと考察しました。
また、高市皇子が天皇に即位していたであろうことも考察しましたが、その高市天皇は、日本書紀の696年7月10日に、『高市皇子尊が薨去された』と簡単に記されています。死の原因などについては一切記載されていませんが、おそらく、文武王と藤原弟妹によって排除されたと考えています。
そのおよそ1年後の697年8月1日に、文武王と鵜野更羅姫との間に生まれたと推測している軽皇子(草壁皇子と天智天皇の娘・阿閉皇女の子とされている)が天皇に即位しました。16歳の文武天皇(在位697~707)です。
いつの日か、日本の地に新羅の王朝が築かれることを夢見ていたと思われる中臣鎌足=金春秋の願いは、孫の軽皇子を天皇に即位させた息子や娘たちによって実現しました。
藤原宮の大極殿が日本書紀に初めて登場する文武天皇2年(698年)の1月1日に『文武天皇は大極殿に出御して、文武百官と新羅の朝貢使の拝賀を受けられた』とあります。
78歳になっていたと思われる文武王は、我が子の晴れ姿に、さぞかし感慨無量だったに違いありません。

【文武王の真の墓】
日本書紀・文武天皇3年(699年)10月13日に、『越智山陵と山科山陵を造営するために、天下の有罪の人々を赦免した』とあることから、文武王は、699年10月頃におよそ79歳で死去したと考えています。
その墓を、海龍王寺の真北にある、京都市山科区の御廟野古墳(山科陵)に比定したいと思います。

【講師紹介】鈴木 惠子(すずき けいこ)本紙に「海を渡った先人達」連載。著書に『万葉の歌姫』(角川学芸出版)、『張学良が仕掛けた四つの罠』(上毛新聞社)など。

*************************************************************************************************

武烈王・文武王 その時代
古代史万華鏡クラブ会長 勝股 優

文武王が朝鮮半島統一を成し遂げたのなら、その道筋を作った父の金春秋(武烈王)を忘れるわけにはいかない。
父子が活躍した7世紀は半島の歴史上、最も激動した時代だった。隋と唐の度重なる高句麗への侵攻により半島の争いは増幅され、それは倭をも巻き込んだ。どの国も生き残りをかけて古い氏族国家からの脱却を目指した。
高句麗では642年、宰相の淵蓋蘇文が王や100余人の重臣を殺すクーデターで政権を掌握。唐や半島の戦いに邁進する。
百済でも同年、義慈王が弟や母方の重臣40余人を追放して独裁体制を築き、新羅への攻撃を強める。
倭における645年のクーデター(大化改新)や壬申の乱も東アジア動乱の流れの中にあった。
最も上手く立ち回ったのが最小国だった新羅。二人の女帝、善徳・真徳を補佐した金春秋の驚くべき外交力があった。国を守るために同盟する道を模索。敵対する高句麗に単身乗り込んだり、倭にも渡った。親子で唐にも行った。まず三男の文王と共に唐の太宗に謁見し、文王を宿衛(皇帝を守る役)に就かせ太宗の心をひきつける。長男の法敏(後の文武王)も派遣。次男の仁問も次の高宗の宿衛とし、父子は三国統一を果たす。
新羅25代王を父に26代王の娘を母とした春秋。これほど活躍した英傑が王になるのは52歳となった時である。三国史記によると三度も王への即位を固辞しているという。その理由はといえば新羅王は王族間での婚姻しか許されず、族内婚が鉄則だった。その点で言えば春秋の文明夫人は新羅統一で大活躍した金〓信の妹。ロマンあふれる大恋愛で結ばれたというが族外婚である。しかも夫人のルーツは加耶にあり、王族としては常識を逸脱した結婚であった。
こんな話も伝わる。春秋と私通した罪で夫人は焚刑に処せられそうになるが、そこを偶然通りかかった善徳女王に救出されたというのだ。つまりそのようなことにより春秋は王への道を望まなかったとみられている。
「姿顔美くして、善みて談笑す」(日本書紀)。春秋は本当に賢く、勇ましく、心優しき人だったようだ。

勝股 優(かつまた ゆう)自動車専門誌『ベストカー』の編集長を30年以上務める。前講談社BC社長。奈良を愛してやまない。

2022-01-01 9面
뉴스스크랩하기
文化セクション一覧へ
旧統一教会と朝総連 寄稿・三浦小太郎...
大阪韓国領事館が移転
ソウルを東京に擬える 第13回 郷土料理
本国投資協会がワークショップ
試験台に立たされた尹錫悦外交
ブログ記事
ウィル・スミスとプーチン
「分断」を考える
精神論〔1758年〕 第三部 第18章 専制主義の主要な結果
存在論の問題(その一)
精神論〔1758年〕 第三部 第17章 専制主義の主要な結果
自由統一
北朝鮮人権映画ファーラム 福島市で開催
福島で北朝鮮人権映画フォーラム
「朝総連は民団と共同行動せよ」 金正...
故意の「天安艦」再調査 全盛根の不可...
南北の人権報告書 米国務省が問題指摘


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません