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最終更新日: 2021-04-21 00:00:00
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2021年03月10日 00:00
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海を渡った先人達(81)先人14人目 天武天皇②
鈴木 惠子


641年10月に起こった大乱については、『蓋蘇文は横暴無道であったので、すべての大人と栄留王は、彼を殺すことを密議した。この陰謀を知った蓋蘇文は、部兵をことごとく集めて閲兵するように見せかけるとともに、宮城の南に盛大な酒宴を設けて、諸大人を招待した。招待客が到着すると、彼らを皆、殺してしまった。その数、百余名に及んだ。王を殺して溝の中に棄てた。王弟の子・蔵を立てて王とし、自ら莫離支になると、国政を掌握した』と記されています。
このクーデターを起こしたのは、蓋蘇文39歳の時でした。その後、蓋蘇文は仏教や儒教の他に道教も高句麗に広めるために、宝蔵王に道教の道士を唐に求めさせています。
新羅の王族・金春秋が高句麗に援軍を求めに来たのは642年10月のことでしたが、その時、蓋蘇文は「太大対盧」という職名でした。「莫離支」という職名が初めて史書に表れるのは、宝蔵王三年(644年)のことです。
『春正月、唐の太宗・李世民は、天竺(インド)から帰国した僧・玄奘に書を託して高句麗に派遣した。その目的は、その頃、高句麗と百済が連合して新羅の唐への交通路を遮断していたので、兵の撤退を求めるものだった。「もし撤退しなければ、来年兵を出して高句麗を討つであろう」との玄奘の言葉に、応対した莫離支・蓋蘇文は、まったく聞く耳を持たず、撤兵には頑として応じなかった』と記されています。
帰国した玄奘から事の成り行きを聞いた唐の太宗は、『蓋蘇文は、王や大人を殺して残虐であり、今また、命令に従わないのでは、討伐しないわけにはいかない』と、蓋蘇文を討つことを決定しました。唐と高句麗の戦争《遼東の役》はここから始まりましたが、戦争の目的は、まさに蓋蘇文を討つことだったのです。
唐の高句麗出兵を知った蓋蘇文は、唐との決戦を避けるべく、白金(銀)などを貢ぎましたが、太宗は受け取りを拒否しました。そして翌645年2月に太宗自ら高句麗に出征して、大規模な戦いになりました。しかし9月に退去を決定して、その年の高句麗討伐は失敗したのです。
和解を望む高句麗王と蓋蘇文は、翌646年5月に使者を遣わして謝罪するとともに、二人の美女を太宗に献上しました。しかし、太宗は臣下の長孫無忌らの進言を受け入れて再び受け取りを拒否し、美女を送り返したのです。そして、『今後、高句麗の朝貢を受け取ってはならぬ』と命じています。
何としてでも蓋蘇文を討伐したい唐の太宗は、647年2月~8月にかけて高句麗を攻撃しました。その4カ月後の12月に、高句麗本紀に不思議な記述があります。
『宝蔵王は、第2子の莫離支・仁武を使者として遣わし、唐に謝罪した』というものです。この記述を素直に受け取ると、647年12月の時点では、莫離支の職は、蓋蘇文から宝蔵王の第2子の仁武に代わったことになります。
推測すると、唐からの攻撃を止めさせたい高句麗王は、太宗の怒りの矛先である蓋蘇文の莫離支の職を解任して、王子の仁武を莫離支に任じて唐に謝罪させたということのようです。

2021-03-10 6面
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