わずか6歳で両親から引き離された豊璋王子は、遠い倭国の地で人質として心細い日々を過ごしていました。やがて、7年後の638年春の13歳の時に倭国に来た父の武王と母に再会したと思われます。その考証と倭国に亡命前後のことについては【斉明天皇】のところで述べているので参照下さい。
やがて倭国に亡命後の18歳頃に、法興寺の蹴鞠の催しで初めて中臣鎌足(金春秋)に出会い意気投合しますが、この頃、鏡姫(後の鎌足の正室)にも出会い、互いに惹かれ合ったようです。これは、万葉集の中大兄皇子と鏡姫の相聞歌から推察されますが、鏡姫が豊璋の妻になることは生涯なかったと考えています。
豊璋が住んでいた所は、『この年(643年)、百済の王子・余豊璋が蜜蜂の巣四枚を持って三輪山に放し飼いをしたが、うまく繁殖しなかった』との日本書紀の記述から、三輪山に近い現在の桜井市のどこかに住まいを構えていたと考えられます。桜井という地域は、397年に倭国に来た百済の人質・阿直岐(腆支)以来、百済系の阿倍氏の本拠地でした。そして百済大宮や百済大寺があり、九重塔がそびえ立っていたのです。
百済大宮と百済大寺の創建については舒明天皇十一年(639年)に、『7月、大宮と大寺を造ることを命じ、百済川のほとりを宮の地とした』『12月、百済川のほとりに九重塔を建てた』とあり、皇極天皇元年(642年)9月にも『大寺を造りたいと思う。近江国と越国の人夫を集めるように』『今月から12月までの間に宮殿を造りたいと思う。東は、遠江まで、西は、安芸までの国々から造営の人夫を集めるように』とあります。
どちらの記述が正しいのか悩ましいところですが、639年は武王が百済に帰国したと思われる年なので、武王の援助で大寺と九重塔が創建されたとも考えられ、642年は豊璋一族が倭国に亡命した年なので、一族の住む宮殿を建てたとも考えられます。大寺と九重塔は639年、大宮は642年の創建だったのかもしれません。
九重塔が建てられた場所は、現在の奈良県桜井市の「吉備池廃寺址」にほぼ確定されていて、一辺32メートルの基壇から推定される塔の高さは100メートルにも及ぶようです。現在の33階建てのビルに相当しますが、1380年も前にそんなにも高い塔があったことに驚きます。
ところで天智天皇の最初の妻、最初の子は誰だったのでしょうか。豊璋が百済に帰国した639年以降の15~16歳頃に最初の妻を娶ったとしたら、妻は百済人であり、最初の子は百済で640~641年頃に生まれた可能性があります。豊璋が島流しにされた際に伴っていた男児が、最初の子だったと思われます。
日本書紀によると、天智天皇は4人の嬪を持ったとされています。最初の嬪として蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘がいますが、中臣鎌足の仲人で644年頃に娶った蘇我倉山田石川麻呂の次女なのでしょうか。実は、豊璋には4人の嬪(遠智娘・姪娘・橘娘・常陸娘)の他に、皇太子妃・蘇我造媛が存在しています。 |