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最終更新日: 2021-01-14 00:00:00
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2021年01月01日 00:00
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古代史万華鏡クラブ 新春特別企画「この人に会ってみたい!!」

 NHKの『タイムスクープハンター』という番組がおもしろかった。未来の人間が過去史の現場に潜り込み、事件や人物をレポートするタイムトンネルものだが、防人がどんな暮らしをしていたのかの回などは、視点がすばらしいと感じた。そこで、われわれ古代史万華鏡クラブでも、ぜひ会ってみたいと思う歴史上の人物を取り上げてみようと思いついた。メンバーそれぞれが「会いたい人」を紹介、会ったらどのようなことを聞いてみたいか、一緒に何がしたいかなど語ってもらった。

◆もしかして一人二役?鏡姫王(カガミノオオキミ)と額田の姫王(ヌカタノオオキミ)

鈴木惠子

鈴木惠子 本紙に「海を渡った先人達」連載中。写真は奈良県明日香村の粟原寺阯で。
 まず鏡姫王ですが、彼女は藤原鎌足の正室です。「興福寺縁起」によると、夫の鎌足の病気回復を願って山科寺を創建し、その山科寺を平城京に移築して「興福寺」と称した藤原不比等の実母とされています。日本書紀には、死の前日に天武天皇が見舞った記事があるのみで、出自などについては不詳です。しかし万葉集に、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足との相聞歌や雑歌など数首が記載されています。中大兄皇子とは相思相愛だったようですが、天智天皇の嬪、及び、子を生んだ後宮の女官の中に鏡姫王の名はありません。659年に中臣鎌足とのあいだに不比等を生みました。683年7月5日に死去し、墓は奈良県桜井市の外鎌山にある「鏡女王墓」に治定されています。
一方の額田姫王も、『天武天皇は、鏡王の娘・額田姫王を召して十市皇女を生んだ』と日本書紀に記されているのみですが、鏡王の娘とされていることから、鏡姫王の姉か妹との説もあります。しかし鏡王自体が謎の人物なのです。万葉集に大海人皇子(後の天武天皇)との相聞歌、天智天皇崩御後の挽歌、雑歌など、12首ほどが記載されていますが、死亡年や墓の場所はまったく不明です。
私は、当時の最高権力者と関わりを持った鏡姫王と額田姫王に興味を持ちました。ある時、談山神社所蔵の「粟原寺の三重塔の伏鉢」に刻まれている銘文を目にしたのです。その銘文を独自に解釈し、想像を巡らせて『万葉の歌姫・額田王の告白』(角川学芸出版)という小説を書きました。その中で鏡姫王と額田姫王は、二つの名を持つ同一人物という設定になっています。
鏡姫王と額田姫王が果たして同一人物だったのか、ぜひとも確かめたいですね。そして関わりを持った三人の男性の真の姿を知るためにも、会えるものなら会って、出自について聞きたいと思います。二人が別人だった場合、中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足に、どのような経緯で出会ったのかということと、それぞれの男性の人柄について、お聞きしたい。二人が同一人物だったら、言いにくいことかもしれませんが、三人の男性の内、誰を最も愛していたのか聞きたいと思います。また、今の日本の姿を見せて、どう感じるか聞いてみたいですね。そして息子の不比等が「日本紀」を編纂し、1300年後の現在も天皇を頂く日本国が存続していると伝えたいと思います。

◆武将 

青嶋 昌子

青嶋昌子 アジア文化ライター。写真は慶州の大長今パークで善徳女王になりきって。
 新羅第27代王の善徳女王、29代・武烈王らの絶大なる信頼のもと、悲願の三国統一に貢献した武将、それが金庾信です。彼の不屈の精神の根源にあったのが花郎精神。花郎は貴族の子弟たちを中心に組織された集団で、自然のなかで集団生活をしながら心身を鍛え、武術や学問を研鑽したといわれています。エリート教育というわけですね。
金庾信は滅亡した伽耶の王族出身の父と、新羅の王族の血を引く母のもとに生まれ、15歳で花郎となりました。高句麗、百済、新羅の三国が覇権争いに明け暮れるのを見て、統一の夢を抱いた庾信は、17歳のときに一人で石窟に籠り、三国統一を祈願したと伝わっています。善徳女王に才能を見込まれ、後に武烈王となる8歳年下の金春秋とも親交を深めていきました。庾信の妹、文姫が春秋に嫁いだことも、二人の結束を堅固なものにしました。644年、上将軍となった庾信は百済の7城を攻め、大勝利を収めます。647年には毗曇の乱を平定したことで確固たる地位と名声を手にしました。こうして迎えた660年、黄山伐で階伯率いる百済軍を倒すことに成功します。
三国時代に関心を持つきっかけとなったのがドラマ『善徳女王』でした。大胆なフィクションを交え、女王誕生をめぐる7世紀の新羅を克明に描き、大ヒットとなりました。その後、『階伯』(11年MBC)、『大王の夢』(12年KBS)と立て続けに三国時代がドラマ化されました。この中心人物が金庾信です。百済好きの私としては、階伯にもっとも愛着を持っているのですが、その階伯のライバル金庾信の人となりには、大いに惹かれるところです。
百済と新羅が激突した660年の黄山伐の戦いにおいて、階伯率いる百済軍5000に対し、金庾信は5万の大軍を率いて勝利したものの、1万の兵を失いました。10分の1の兵力で、新羅軍を大いにてこずらせた百済軍はまさに決死の覚悟でしょうが、迎え撃った金庾信の当時の心境は如何ばかりだったかと。圧倒的優位に立ちながら4度退却を余儀なくされたというから、5度目の激突ではもうあとがなかったはずで、とっくに死を覚悟していた階伯以上に追い込まれていたと察せられます。実際、後の評価には、犠牲者の数でみれば階伯に敗北を喫したも同然との否定的な見方もあるほどです。そんな彼の当時の胸の内をぜひとも聞いてみたいです。

◆マッコリで語り明かしたい歌人 山上憶良(ヤマノウエオクラ)

勝股 優

 その意味を完璧に理解することは難しいが、万葉集をはじめとする和歌は日本文化の誇るものであると思う。額田王や柿本人麻呂などの歌人が恋や四季の美しさ、故人をしのぶ挽歌を詠んでいた時「貧、老、病」(子供をテーマにしたのも多かった)を歌い、社会に目を当てまざまざと当時の庶民の生活や心の内を今に伝えてくれた山上憶良(660~733年?)もぜひ会ってみたい人だ。
勝股優 古代史万華鏡クラブ会長で、古代史紙上勉強会講師。写真は李朝時代に大運河が作られた忠清南道の安眠島で、黄海の牡蠣とともに。
 憶良は4~5歳の時に百済から来た渡来人だ。百済の滅亡は660年、白村江の戦いは663年だから、まさに亡国の避難民として必死に海峡を渡ってきた。日本書紀に、天智4年(665年)に百済の男女400人を近江の国に移住させたとある。現在の甲賀市水口町の山間部に「山」という地名が残っており、山上はこの地に由来するという説がある。
空港で日本人の顔をしているのに日本人ではないムードの人を見かけることがある。だいたいは日系3世とか4世の人だ。1世や2世は故国の生活習慣や食事にこだわるものだが、3世や4世になると心身ともに移り住んだ地に完全に同化してしまうわけだ。古代の渡来人もその例に洩れなかったはずだ。憶良の場合、日本に渡って来た時は4~5歳だったから故郷の風景や風俗を覚えていただろうし、何より父親が毎夜懐かしく古里のことを語ったことだろう。憶良の心の中の半分は百済人のままであったであろう。父の名は憶仁。天武天皇の御医だったという説があるが、当時の医官の地位は低かったようだ。
憶良がどのような青年時代を送ったかは不明である。ようやくその名が正史に登場するのは渡来から40年近くたってから。702年の遣唐使の随員の一人に加えられる。下級の書記官であったであろう。
6年後に帰国したが、よほど勉強したのだろうし、人格に優れていた憶良は50代半ばに寒門(名門の反対語)出身としては破格の従五位下に昇進。ギリギリ殿上に上がれる貴族となる。余談だが、大宝元年(701年)の五位以上の官人は119人。多くなりすぎたので、朝参(勤務)する人の数を調整するため畿内に住む在位者は1年のうち4か月のみ朝参すればよかったらしい。これなら詩文の研鑽に励めるわけだが、憶良は老●(身へんに区)を押してよく働いた。遥か遠国に赴任して。
56歳の時に伯耆守(鳥取)、61歳で首皇子(後の聖武天皇)の東宮侍講(教育係)、66歳で筑前守(福岡)となり、732年、72歳でようやく任を解かれ都に戻る。当時の平均寿命がおそらく40代後半~50代前半であった時代のことだ。帰京したその年、憶良は約500字の長歌「貧窮問答歌」を詠んだ。全文を紹介することができないのが残念だが、冒頭でも書いたように万葉集を読み解くことは難しいが、この歌だけはなんとなくわかる。一見華やかな天平文化の陰で生きる庶民の寒々とした暮らしがうかがえる。
「風雑へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は術もなく 寒しくあれば(中略)寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは 吟び泣くらむ(後略)」
前半は名も無き時代の自分、後半は貧しい人たちのことを歌う。憶良は立身出世して体制側の人間になったのだが、その心は常に民衆の側にあった。人生の終わりにこそ、庶民の生活の苦しさを広く伝えたかったのだろう。あるいは祖国の人たちのことを思ったのかもしれない。
塩をなめながらマッコリを飲み、人生を語り合いたいと思う。

■おまけ■

 ちょっと怖いけど会いたい人たちもいる。統一新羅の時代、この国は優れた船舶技術を持ち中国はおろか東南アジアから西アジアを股にかけ交易していたという。その時代の海洋王として有名なのが、張保晃だ。半島南西部を支配し半独立国のような勢力圏を築いたが、新羅から送り込まれた刺客により暗殺されてしまう。それに続いたのが王建だ。よくいえば貿易商、その実態は海賊だった太祖王建は新羅から政権を奪い、500年近く続いた高麗国の始祖となった。
海賊や農民が国を作る……。中国でも漢の始祖、劉邦や明の朱元璋も農民出身である。なんとも大陸的スケールの大きな下克上話だ。 

2021-01-01 9面
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