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最終更新日: 2020-11-18 09:01:27
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2020年11月05日 00:00
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海を渡った先人達(67) 先人10人目 中臣鎌足⑭/先人11人目 孝徳天皇①

 鎌足は亡くなる前日に大織冠と〈大臣〉の位、そして藤原の姓を授けられました。56歳で亡くなったとされていますが、金春秋の生年603年から勘案すると、実際は66歳前後と推定されます。葬られた墓は、阿武山古墳で間違いないと考えています。
その「阿武山古墳」と、鎌足が祀られている「談山神社」、そして滋賀県の三井寺から北に約700メートルの所にある「新羅善神堂」の3地点を結ぶと、「30度・60度・90度」の直角三角形になります。この形は、三者の非常に強い関連を示しています。
鎌足の死から7年後の676年11月、新羅は、ついに半島から唐の支配を排除し、金春秋(武烈王)の長男・法敏(文武王)によって韓半島が統一されました。晴れの日の祝典に父の姿がないことが、文武王にとって最大の心残りだったに違いありません。
その後、武烈王に三韓統一の基を成した功績を尊び、《太宗》の称号が追贈されました。現在、韓国慶州市の西岳洞古墳群の中に「太宗武烈大王の碑」が立てられている墓が存在しています。

【先人11人目】孝徳天皇①


孝徳天皇(在位645~654年)の名は、天万豊日<天のことごとく満ち足りた日々>と言い、即位前の名は軽皇子です。斉明天皇の同母弟とされ、姉の子・間人皇女を皇后とし、妃の小足媛との間に有間皇子が生まれたとされています。
すでに【中臣鎌足(6)】のところで孝徳天皇を百済の王族・翹岐と推定したので、ここでは孝徳天皇と翹岐が同一人物と考えられる根拠と、その実像に迫ってみたいと思います。
翹岐という名が初めて日本書紀に登場するのは、皇極天皇元年(642年)2月2日、『百済の使者が、去年の11月の〈大佐平〉智積の死、今年正月の国主母の崩御、更に、弟王子と兒・翹岐及びその母と妹の女子4人・高名の人々40人余の島流しを告げた』という記述です。
その中の『弟王子と兒・翹岐及びその母と妹の女子4人』の原文は、『弟王子兒翹岐及母妹女子四人』となっています。従来の説では、翹岐は「百済・義慈王の弟王子の子」とされています。しかし、「兒」とは幼少の男児のことと解釈されるので、翹岐には当てはまらないようです。そのため『弟王子と兒(男児)、翹岐及びその母と妹の女子4人』と理解しました。つまり弟王子とその男児も島流しに処せられたことになり、弟王子とは義慈王の異母弟と考えられます。
倭国に入った後の翹岐の様子は、次のようになっています。
(2月24日)翹岐を呼んで、阿曇連比羅夫の家に住まわせた。
(4月8日)翹岐が従者を連れて、帝(倭王・入鹿)に拝謁した。
(4月10日)蘇我大臣(倭王・入鹿)は、畝傍の家に翹岐を呼んで親しく対談した。良馬1匹と鉄20〓を贈った。
(5月5日)河内国依網屯倉の前に翹岐らを呼んで、騎射を見物させた。
(5月21日)翹岐の従者の一人が死んだ。

2020-11-05 6面
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