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最終更新日: 2020-08-10 19:12:58
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2020年07月15日 00:00
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海を渡った先人達<55> 先人10人目 中臣鎌足

鈴木 惠子

 鎌足は、『大織冠伝』と『日本書紀』ともに、仏教に反対し、代々天地の祭りを司る神祇伯の家系であるとされていますが、このことに疑問を抱かざるを得ません。
長男の定恵は、「653年に11歳で学問僧として唐に渡り、長安の慧日道場に住んで神泰法師に学んだ。唐の使者・劉徳高らの船に乗り、665年9月に百済経由で帰国した」と『貞慧伝』に記されていますが、日本古来の神々を祭る家系の鎌足が長男を出家させて僧にし、仏教を学ばせるために大きな危険を冒してまでも唐に行かせたのはなぜなのでしょうか。その理由として、鎌足自身が仏教の教義を理解していた仏教信者であったと考えるのが、最も自然ではないでしょうか。
鎌足が仏教信者と思われる事例として、長男を出家させた以外に次のようなことが挙げられます。

◆鎌足は死後、山階精舎に葬られたとされているが、精舎とは寺院のことである。鎌足の死後、唐から帰国した定恵が多武峰に父の御霊を移して妙楽寺(現在の談山神社)を創建し、701年に妙楽寺の十三重塔の東に聖霊院を建立して鎌足像を安置した。このように、鎌足は寺院に祀られている。

◆鎌足の次男・不比等が710年に創建した興福寺は、鎌足の正室・鏡姫が、鎌足の病気平癒を願って669年に建立した山科寺が起源とされる。その興福寺では、毎年旧暦の10月10日から鎌足の命日である10月16日までの7日間、維摩会(維摩経を講読して供養する法会)が行われている。この維摩会は、鎌足の生前、山科寺に僧の福亮を招いて維摩経を講説させたのが始まりとされる。維摩経は、在家信者であっても成仏することができると説いていることから、鎌足は維摩経を信じて成仏を願っていたと思われる。

◆1515年制作とされる平等院に伝来する「鎌足・定恵・不比等像」の鎌足は、弥勒菩薩像の半跏踏み下げ(片足を踏み下げて、片足を台座の上に乗せる)の姿形を採っている。このことから、鎌足が仏教信者であることが推測される。
これらのことから、鎌足が仏教信者であることはほぼ確定できそうです。すると、不比等と仲麻呂は鎌足が仏教信者であることを隠し、祖先を天児屋根命ということにして、出自を偽ったということになります。出自を偽らなければならなかった中臣鎌足とは、いったい誰なのでしょうか。すでに【允恭天皇】のところで、藤原不比等が新羅金氏の子孫である可能性が非常に高いことを述べましたが、そうだとしたら、父の鎌足も新羅金氏の可能性があるのです。

1934年に京都大学によって偶然発見された大阪府茨木市にある阿武山古墳が、藤原鎌足の墓以外には考えられないと「阿武山古墳X線写真研究会」から発表されたのは1987年のことでした。その年11月3日の朝日新聞の記事には、『人骨のX線写真によると、第11胸椎が圧迫骨折したままで、左第12肋骨に骨折が治癒した跡があった。また、X線写真を見た医師の診断によると、死因は、高いところから落ちて骨折したことが原因で、今で言うと、自動車に跳ねられた時の症状に似ている』と記されています。

2020-07-15 6面
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