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最終更新日: 2020-04-05 19:12:08
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2020年02月13日 00:00
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海を渡った先人達<35> 先人7人目 雄略天皇⑦

 抵抗勢力を排除して、ついに倭王に即位した「武」ではありますが、天皇としての評価があまりにも低いことが気になります。
『長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった。また、しきりにいろいろな悪事を行われた。一つも良いことを修められず、およそ様々の極刑を親しくご覧にならないということはなかった。国中の人民たちは、皆、震え恐れた』
この他にも武烈天皇紀には、内容を書き示すのをためらうような記事があふれています。すると疑問が湧いてくるのは、武烈天皇紀は事実を伝えているのか創作なのか、創作だとしたら意図したものは何だったのか、ということです。また「武烈」という漢風諡号が、百済と高句麗を滅亡に至らせた新羅金氏の武烈王(金春秋)と同じなのも気になります。
さて、ここで百済国の様子を見てみると、501年に武寧王が即位しています。状況から判断すると、武が武寧になったと推測できますが、確かな根拠を探るために、まずは倭王・武が478年に宋の順帝に朝貢した時の上表文を見てみましょう。
『父は、自ら甲冑をまとって、幾つもの山河を踏み越え、居住地に留まる暇もなく戦ってきました』
『東は、毛人を征すること55国。西は、衆夷を服すること66国。渡って海北を平定すること95国』
『そのうえ、高句麗は殺戮を止めようとせず、天朝への入朝をじゃまして海路を塞いだことに、亡くなった父は憤り、大挙出征しようとしていましたが、突然、父と兄が亡くなりました』
『今、甲を作り、兵を準備して、父兄の志を遂げようとするに至りました。もしも皇帝陛下の威光をもって、この高句麗という強敵を打ち砕き、平定することができれば、前からの職務に変わることなくお仕え致します』
これらの文面から、高句麗に対する怒りが伝わって来ますが、雄略天皇二十三年(479年)の、『筑紫の安致臣・馬飼臣らは、船軍を率いて高麗を討った』との記述から、宋への上表後、実際に高句麗を攻撃したようです。高句麗への怒りは、蓋鹵王の472年の北魏への上表文にも満ちています。
『今、高句麗の高璉(長寿王)は罪があります。殺戮は止むことがなく、犯罪は満ち、庶民は離反しています。このことは、高句麗滅亡の時が迫っていることを示しています。なお且つ、高句麗は道理に背いています。もし、今、高句麗を打ち取らなければ、まさに後悔するでしょう』
このように二人の上表文には、ともに高句麗への強い敵意があらわれていることから、武の父は蓋鹵王だと確認できそうです。そうであれば、武が父と兄が突然亡くなったと言っているのは、蓋鹵王が475年に高句麗に殺害され、477年に兄の昆支が急死したことを指すと思われます。そして蓋鹵王は、倭王・済であり、武の名は嶋であり、武は、後に百済王の武寧(斯麻)になったと推定できるのです。
すると、倭王・武が宋朝に上表文を奏上した時、18歳頃だったことになります。やがて、甥の末多王(東城王)が百済王として母国に迎えられることになったとき、19歳の若き倭王の心の中では複雑な感情が渦巻いていたと思われます。それは、甥への対抗意識、そして妬みのような感情だったのかもしれません。

2020-02-13 6面
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