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最終更新日: 2020-02-19 00:00:00
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2020年02月05日 00:00
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海を渡った先人達<34> 先人7人目 雄略天皇⑥

 武寧王は、翌年(502年)高句麗の辺境に侵攻し、その後、高句麗に奪われた漢城を取り戻し、高句麗を攻撃して大勝利を挙げています。また、その前後の512~513年にかけて伽耶諸国の一部も領有し、領土を拡大させた武寧王は、521年に、梁から「寧東大将軍・百済王」に封じられたのです。武寧王の陵墓は1972年に公州市で発見され、誌石には「寧東大将軍・百済斯麻王。年六十二歳。癸卯年(523年)五月七日崩(以下省略)」と刻まれています。

では次に、倭王・興(昆支)が476年頃に百済に去った後の倭国は、どのような様子だったのかを見ていくことにします。
百済に帰った興(昆支)が、477年4月に内臣佐平という官職に就いた3カ月後に急死したので、その後、武が倭国に来て倭王位を継いだと思われます。

中国の史書に倭王・武が現れるのは、478年の宋への朝貢に始まり、479年の南斉への朝貢で「鎮東大将軍・倭国王」に封じられ、502年の梁への朝貢で「征東大将軍・倭国王」に封じられています。これらの称号は、百済王と同等なので、中国側から見て、倭王と百済王は同格であると認識されていたことがわかります。ちなみに武以前の倭王は、すべて百済王の下に位置付けられていました。この502年の梁への朝貢以降、倭王・武の名はピタリと途絶えてしまいます。

日本書紀ではどのようになっているのか見てみると、武が即位したと思われる478年頃から、武の名が途絶える502年まで、4人の天皇が即位しています。

(1)白髪武広国押稚日本根子(清寧)天皇(480~484年)
(2)弘計(顕宗)天皇(484~488年)
(3)億計(仁賢)天皇(488~499年)
(4)小泊瀬稚鷦鷯(武烈)天皇(499~506年)

倭王・武が478年に宋に朝貢した時の上表文に、『興、死して、弟、武立つ』とあります。興は、百済の昆支と考証済みなので、昆支の弟と記されている武は百済の人と確定されます。そのため、この4人の天皇のうち倭王・武に関連していると思われる天皇は、<小さな百済の、来て行った(又は、未熟な)かささぎ(韓半島に生息している野鳥)>という意味の名を持つ、小泊瀬稚鷦鷯(武烈)天皇に比定できそうです。

武烈天皇は、499年12月に、泊瀬の列城で即位したとされています。478年頃に倭王に即位したと思われる武が武烈天皇として表されているとしたら、約22年の繰り下げが行われていますが、即位に至るまでの様子は日本書紀の記述から推測することができます。

倭王・興(昆支)が百済に去った後、まずは、雄略天皇の子・星川皇子が、王位を狙った罪で討伐されました。次に、百済から倭国に入った武が、妻に娶ろうとしていた影媛が、平群真鳥大臣の子・鮪と通じていたことに激怒して鮪を殺害させ、最後に国政を掌握して王のように振る舞っていたとされる平群真鳥大臣を殺害させました。これらのことは、476~478年の間に行われたと思われます。平群真鳥という人物は、父は木菟宿禰、祖父は武内宿禰とされている伽耶系王朝の子孫です。

2020-02-05 6面
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