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最終更新日: 2020-02-19 00:00:00
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2019年07月18日 00:00
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【最終回】1800年にわたる韓日の交流史をたどる
新羅との使節団交流は中国の3倍

 「大陸(中国)伝来説」は、日本の文明を論じる際に有力な説となる。しかし、不思議なことに日本で文明伝来を語る際に韓国は蚊帳の外となっているのが常だ。実情は異なる。歴史的に最も深く、最も多く日本と交流した国は韓国だ。7~8世紀もそうだった。大和朝廷が中国の王朝と交流した使節団は32回だった一方、韓国の新羅王室と往来した使信団はその3倍を超える98回に達している。(ソウル=李民晧)

百済の男性と女性の寺(僧寺と尼寺)、百済の遺物が発掘された大阪・細工谷遺跡(1996年、大阪歴史博物館)
 難波宮は7~8世紀、大阪が日本の首都だったことを証明する痕跡だ。宮は広大だった。現在、大阪歴史博物館とNHK大阪放送会館がある場所は、天皇が住む私的な区域だった。そこから大通りを渡ると難波宮跡公園がある。公園(難波宮)のメインとなる「大極殿」は、海外使節の祝賀宴など、天皇が国の公式行事や執務を行う時に使用した正殿だった。
日本の学界は、宮の完工時期を652年とみている。「日本書紀」は宮について「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記載している。その威容がどれほどだったかは想像に難くないはずだ。宮は西暦645年、日本初の政治思想改革である大化の改新(乙巳の変)が宣言された場所としても知られている。
創建時期は、百済系天皇である斉明女王(第35代、第37代)と孝徳帝(第36代)の執権期だ。海を渡り、韓半島で百済、高句麗、新羅の三国間における覇権争いが熾烈に繰り広げられていた頃だ。興味深いのは、この難波宮跡から南に3キロ離れた四天王寺までの一帯が百済の痕跡として塗り替えられている点だ。
1996年に発掘された天王寺区の細工谷遺跡からは、百済の尼、即ち百済尼(くだらに)、百尼という文字が刻まれた墨書土器と、「和同開珎」と刻まれた銅銭6枚が連なる銅銭枝銭(えだぜに)、女僧(尼)の父の名前を刻んだ木簡など186点の遺物が出土された。百済尼土器は、百済の女性たちが集まって暮らした寺だったという事実を、銅銭はここが日本の首都・難波の貨幣を製造していた場所であることを示す証拠となる遺物。二品の仏寺だけでなく、百済の渡来人の生活像、銅銭(銭貨)鋳造及び流通などを把握できる重要な史跡なのだ。
百済遺跡はこれだけではない。細工谷遺跡から400メートルほど南東に向かうと百済寺(堂ヶ芝廃寺)があったものと推測される。大阪歴史博物館学芸員の寺井誠氏は「遺跡から『僧寺』と墨で書かれた土器が出土したが、これは男性の寺であり、近距離に男女の寺(僧寺と尼寺)が共に存在していたことを具体的に示している。このように男女の寺が近くにあるのは百済のあり方に共通している」(www.mus-his.city.osaka.jp/news/2013/tenjigae/130821.html)と説明した。
細工谷遺跡があった場所は、難波宮から南に2キロ離れた上六だ。今日の在日同胞が多く利用する駅の一つである鶴橋駅近郊であり、交通の要でもある上本町駅からも歩いて5分ほどだ。
そこから再び南へ1キロほど移動すると、四天王寺が見える。この寺は韓半島三国の使節団をはじめ、海を渡った渡来人らの宿所だった。大和朝廷の迎賓館だ。新羅が三国を統一する前の647年、新羅の金春秋が使節として難波宮で天皇に接見した後に宿泊した場所も四天王寺だっただろう。日本の仏教の創始者的人物として知られる聖徳太子が建てたこの寺は、百済の建築職人たちを招いて創建した。南北を結ぶ中心線上に中門と五重塔、金堂を一直線に配置した伽藍配置の様式は百済のそれと同一だ。瓦や建築様式に至るまで、隅々で百済の息遣いを感じることができる。
百済人が建てた四天王寺と筆者(2019年、韓国教育放送)
 百済と日本の深い関係を示す空間も残っている。1990年、大阪興銀をはじめとする在日同胞たちが始めた四天王寺ワッソ祝祭のメインステージ、石舞台。ここは音楽舞踊家の味摩之(みまし)が日本の国楽の舞楽を伝授した舞台だ。味摩之は日本国楽の元祖である呉楽を教え、そこに登場する舞を伝授した人物だ。
大阪市内の至る所に並ぶ百済遺跡。しかし、大和朝廷が百済を滅亡させた新羅と敵対し交流を絶ったわけではない。大阪歴史博物館の展示室の壁に掛けられた絵「遣唐使の出港想像図」からは、様々な考えを巡らせることができる。古代大和朝廷から随・唐、新羅に派遣する使節団一行を乗せた船が難波津を出港する場面が描かれている想像図だ。そこに加えられた説明は、いくら関係が悪化しても日本と韓半島とは切っても切れない宿命的な関係であることを示している。まるで現在の韓日政府関係のように、いくら悪化しても会談を重ね、交流することが必要不可欠だ。以下は、「遣唐使の出港想像図」に書かれた解説だ。
「難波は大陸文化の窓口であった。難波を出発した7・8世紀の遣隋使・遣唐使は22回、遣新羅使は32回に及び、また海外からの使者も隋・唐から10回、新羅からは66回も来着している。難波津には外交施設である客館も建ち並んでいた」

2019-07-18 3面
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