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最終更新日: 2019-11-07 00:00:00
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2019年05月15日 00:00
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コラム 徳川家康の学問師匠・藤原惺窩という人
日本の儒学の大家

 関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1600年(慶長5)10月にそのまま上洛し、二条城に滞留したある日のこと、藤原惺窩を招いて『大学』を講義させ、ほかにも『貞観政要』『漢書』『十七史』などの講義を受けたそうだ。惺窩は京都五山の寺格2位の相国寺首座の僧だったが、僧服を脱いで深衣道服(儒服)を着用して講義したといい、惺窩の門人林羅山はその様子をみて「わが国儒学の濫觴」と讃えたそうだ。
謹厳な惺窩はある時、ゆかた姿で講義を受けようとした家康に対し、厳しい顔をして、講義は遊びでないと言って席を立ち、その日の講義を中止しようとしたのだが、家康は無礼をわび、講義を受けたというエピソードもある。藤原惺窩は、1590年(天正18)7月に派遣されてきた朝鮮国使臣の黄允吉、金誠一、許筬と大徳寺で会った時、大きな影響を受け、日本で、帰儒排仏を最初に宣言したといわれている。朝鮮使臣は同年11月に聚楽第で豊臣秀吉と会見したが、翌91年(天正19)に秀吉は朝鮮出兵を命令したのだ。この年に関白豊臣秀次が京都五山の僧を召集し相国寺で詩会を催したのだが、惺窩は出席を断わったそうだ。
日本の儒学は、藤原惺窩が出るまで、清原家が研究していたといわれ、明朝儒学の実証主義の側面に近いものを持っていて林羅山に大きな影響を与えたという。惺窩は1600年、徳川家康から誘いのあった仕官の道を断り、京都の陋屋に隠棲し、貧困と病気に悩みながらも、羅山らの弟子たちを相手に読書人の生活を楽しんだという。
15年(元和元)には羅山らの援助で、鞍馬山麓の洛北市原村の山荘に移り、松林の中に書斎を設けた。そして19年(元和5)9月12日、その山荘で歿した。惺窩は、市原の山荘を「友社」と呼び、当代随一の事業家角倉素庵、播磨時代から親しく国学に造詣の深い加古宗隆、徳川家康の侍医意安宗旬、若狭8万石を捨てて風月を楽しむ木下長蕭子らと文雅の清遊を楽しんだという。姜沆もしばしば招かれ、交友の仲間入りをし、彼らの問いに答えたということだ。
山荘は、現在の左京区静市市原町の地で、北市原第二児童公園内には「此付近藤原惺窩市原山荘跡」の石標があり、高106×幅19×奥行19センチ、1970年(昭和45)3月、京都市の建立だ。最初の建立地は現在地より100メートルほど東にあったそうだ。
司馬遼太郎は『韓のくに紀行』で惺窩を次のように評している。
「惺窩は、中世と近世のこの端境期にぬっと顔を出して倭の社会をはげしく憎悪した最初の異常人であった」
「惺窩は、”学問”をその程度にしかうけとらない当時の荒大名を嫌悪していたに相違なく、かれはつねに傲岸に構え、招待されてもその大名が嫌いな場合はにべもなくことわったりした」
「その姜沆に、惺窩が熱烈に接触した。あたかも師父を見るようであり、当時日本において語るべき相手を見出すことができなかった惺窩のさびしさからいえば、これは当然であるといえる」
「文章による記録能力や習慣などは、『太平記』的な文章もしくは狂言ふうの文章ながら、すでに文章日本語というものが確立しており、しかもその能力は粗野な武士にまでおよんでいて、おそらく識字の普及度も中国や朝鮮以上だったであろう。が、惺窩がのろうがごとく、その社会はあくまで力による競争社会であった。儒教の文明原理からみればそういう社会は野蛮でしかない」(韓登)

2019-05-15 4面
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