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最終更新日: 2019-08-15 00:00:00
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2019年03月06日 00:00
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海を渡った先人達<3> 先人1人目 卑弥呼③

鈴木 惠子

 麻余がいつ生まれていつ死んだのかについては、現在のところ確認できていません。しかし、公孫氏との関係から推測が可能です。
麻余と公孫氏との関係は、中国の遼東地方を支配していた遼東太守「公孫康」が、204年に楽浪郡を分割して、南部地域に帯方郡を新設した時から始まります。
公孫康は当時、高句麗と鮮卑の板挟みになっていた夫余を、帯方の地に移住させ、帯方郡を新設しました。このとき即位したのは「簡位居」と推察されます。公孫康と簡位居は、互いの娘を嫁がせて帯方郡を協力して統治していきます。麻余は、おそらくこの頃に生まれたと思われます。
221年、後漢王朝に替わって魏王朝が成立していますが、これ以降に簡位居が死去し、麻余が共立されて夫余王に即位したと推察されます。
233年に「公孫淵」が呉と通じ、呉から燕王に封ぜられ、次第に強大になっていきます。そこで魏政府は、公孫淵を237~238年に討伐し、公孫派官僚を一掃したのです。夫余王の麻余も公孫淵とともに処分を受けた可能性があります。
一方、倭ではまさにこの238年6月に卑弥呼が魏の洛陽に使者を派遣しています。卑弥呼の名の初見です。同年12月、魏の明帝から「親魏倭王」に任命されましたが、その時の告示書の一部を、以下に示してみます。
『天子の命を受けて、支配されるようになった卑弥呼…私は、はなはだ、汝を哀れんでいます。【我甚哀汝】そこで、今ここに汝を(親魏倭王)とし、金印を授けることとします。…このことは、汝はまさに平安で慰められるべき素因を持った人【汝其綏憮種人】であることと、私に従って孝行してくれたために、励ます【勉爲孝順】意味でもあります』
卑弥呼は哀れな境遇だったと記していますが、公孫氏の討伐によって排除され、幼子を残して倭国に渡ってきたとしたら、卑弥呼はまさに哀れな人です。
また「晋書」四夷伝・倭人条の、次の部分に注目してみます。
『宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見、其後貢聘不絶、及文帝作相、又數至』<宣帝(司馬懿)が平定したのは、公孫氏である。その女王が朝廷に接見するために遣わした使者が帯方郡治所に来た。その後、使者を遣わして貢物を奉ることは、絶えることがなかった。その貢物を、文帝(司馬昭)がよく観察検品し、数を数えた>
この記録は(倭人条)であることから、「その女王」=卑弥呼と思われますが、「公孫氏の女王」と言っています。公孫氏の女王といえば麻余の他には見あたりません。この記録を信じるならば、夫余王の麻余が、卑弥呼であると確定できるのではないでしょうか。
中国版ウィキぺディアで、夫余王「麻余」の在位は238~247年となっています。この在位年は、卑弥呼とぴったり重なります。麻余の即位年や死亡年について具体的に書かれている資料は、現在のところ確認できていませんが、中国の研究者は、どのような資料から在位年を導き出したのでしょうか。興味深いところです。

2019-03-06 6面
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