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2009年06月06日 00:00
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朴正熙 逝去30周年記念連載⑫ ― 企てられたクーデター
陸軍本部 深夜の参謀会議で・・・
 

連載12 笑みと沈黙のわけ

 

 目標は「李承晩の再選阻止」だった。米軍はこれを達成するため、李鍾贊陸軍参謀総長側に対し、釜山の政治波動以前から工作を重ねてきた。李承晩の戒厳軍に韓国軍が利用されることを防ぐためだ。バン・フリート(Van Fleet/ 1892-1992)は、李承晩に対する米国側の拒否感を漂わしながら、クーデターの可能性を打診したようだ。「バン・フリートの本心は分からない」としながら傍観していた鍾贊に対し、李龍文作戦局長の見解は異なっていた。彼は「米軍が李承晩の排除を望んでいる」と解釈した。その上、「米国が李承晩に対する支持を事実上撤回した現在、2つの大隊レベルの兵力さえあれば簡単に李承晩を無力化できる。よって、国会で張勉を次期大統領に選出するための足がかりとなる」と判断した。李龍文の補佐官的存在だった朴正熙大佐も強硬論派だった。

  

 金宗平情報局長をはじめとする陸軍本部の参謀たちも、ほとんどが「反李承晩」派だった。彼らは、6.25の初戦で李承晩が虚偽の放送を流したこと、「14後退」で数万人を凍死や飢え死にに追い込んだ「国民防衛軍事件」、700人余りの善良な市民を虐殺した「居昌事件」などに対して憤怒していた。李龍文と朴正熙は、戦前から李承晩政権に対して批判的だった。李龍文・朴正熙らの強硬論に押された李鍾贊参謀総長は、韓国軍のクーデター計画に対する米国の態度を、一時は積極的に打診していたようだった。鍾贊総長はしかし、米国の支援なくしてクーデターの敢行は不可能、と考えていた。

 

  6月1日、ライトナー米国大使代行は国務部に電報を送った。

 

  「必要であれば、国連軍が釜山に直接戒厳令を宣布した上で李承晩を拘束し、釜山の韓国軍と警察を接収する計画の樹立を建議する。この場合、副作用はほとんどないだろう。秩序も短期間に回復されるだろう。李承晩も、抵抗勢力を扇動するだけの一定の力はあるが、新大統領が選出されたら知識層は彼を受け入れ、受動的な大衆も特別な反抗は見せず、流れに従うはずだ」

 
 
 1952年6月のはじめ、李承晩にとっては血が凍る瞬間が続いた。米軍が戒厳令を宣布し、「李承晩の圧力から野党を解放させる」との噂が釜山の政界に流れたのだ。この噂は国会議員たちに勇気を与えた。野党議員らの身辺を米軍や国軍が保護できるようになれば、国会で新大統領が選出されることになり、李承晩政権は倒れるのだ。
 
 

 この頃、陸軍本部では深夜の参謀会議が開かれた。証言者の安光鎬(故人。陸軍准将予備、大韓貿易振興公社社長を歴任)は、当時の総長秘書室長だった。安光鎬の父、安秉範は日本の陸軍士官学校出身で、6.25の南侵直後にソウルから脱出できず、仁王山で割腹自殺をした。安氏の2人の弟も戦死した。安氏は問題の深夜参謀会議が開かれた日について、戒厳令宣布から一週間後の6月12日頃と記憶している。総長専属の副官、柳ビョンイル中佐から電話で呼び出され、陸軍本部の会議室に行くと既に参謀たちが集まっていたという。李鍾贊総長と柳ジェフン参謀次長の姿はなかった。鍾贊総長は5月28日、李承晩大統領に自らの辞意を表明して以来、官舎に引きこもっていた。そのため、柳ジェフン次長が代理として出席していた。安光鎬が生前に残した証言は以下のとおりだ。

 

 
 「李龍文作戦局長の姿はなく、朴正熙次長が代理として出席していた。柳ビョンイル副官が私に議題内容を説明してくれた。後方での共産党ゲリラ隊討伐任務を命じられている2つの大隊を釜山に送り、ウォン・ヨンドクの憲兵隊兵力を牽制しよう、という主旨だった。兵力移動は非常に容易いものと思われたが、それがどのような結果を迎えるかは、参謀たちが一番良く分かっていた。李承晩が唯一依存していたといえる憲兵隊が無力化されれば、国会は野党が支配し、李承晩大統領は失脚することになるのだ。
 
 
 私が会議室に到着した頃には議論がかなり進行していたようだった。投入する兵力の指揮官には、朴キョンウォン、李ヨンらの名前が挙がっていた。会議の大勢は、派兵の方向に傾いているような印象だった。私はふと、李鍾贊総長を思い出した。彼は『軍は政治に介入してはならない』という持論を持っているが、この日の会議は『親衛(護衛)クーデターを牽制する』という名分を掲げながら、実際は『別のクーデターを敢行する』ことを目的としているのではないか、と感じていた。
 
 
 私は参謀らから、鍾贊総長の代理として柳ジェフン次長を参謀会議の議長として連れてくるよう告げられた。時間は夜中の2時頃だったと思う。私は大佐で、彼は少将だが、本来我々は友人だった。私の先代と、彼の先代の柳スンヨル将軍もまた友人同士だった。私は柳ジェフン次長をジープに乗せ、陸軍本部へと向かう車中で状況を説明した。柳ジェフンから『どうしろというんだ』と聞かれた。私は次のように説明した。
 
 
 『うまくいけば革命が起こるかもしれない。成功の可能性は一線の状況に掛かっている。軍団長や師団長クラスが反発すれば収拾は困難になるだろう。そうすると戦争の遂行に支障が生じる。成功したとしても、軍が革命を起こしたという汚点を残すことになる。絶対的に米国の支持が必要だが、バン・フリートが鍾贊総長を頻繁に訪問していたものの、革命についてこれといった言及は無かった』
 
 
  これを聞いた柳次長はこう返した。
 
 
 『5月26日現在、軍は政治不介入という立場に変わりない、ということにすればいいのでは』
 
 
 私は『それはいい』と賛同した。柳ジェフン次長が参謀会議室に入ると、会議は進められた。金ジョンピョン情報局長が議題を説明した上で『作戦参謀も可能だと言っています』と告げた。人事参謀は『一線の将兵たちの士気や軍紀に影響を与えないよう、迅速に事を行うべきだ。しかし、その判断は人事参謀が下せるものではない』と言った。柳ジェフン次長が李龍文作戦局長に代わり、作戦参謀として出席していた朴正熙大佐に聞いた。朴大佐はにやりとしながらこう述べた。
 
 
 『その問題は上層部の結審に掛かっています。いざ実行するのであれば、支障が生じないよう手配することは可能です』
 
 
 私は今でも、朴大佐の含むような笑みが脳裏に焼きついている。軍帥参謀は『その問題はG2(情報)、G3(作戦)で決定する問題であって、我々には関係ない』と述べたはずだった。個人的に意見を聞いてみると、どの参謀も『絶対に敢行すべきだ』とは言わなかった。参謀らの意見を一通り聞いた後、柳ジェフン次長がこう言った。
 
 
 『では、陸軍本部の態度をはっきりさせましょう。今日現在、陸軍本部の結審に変わりはない、ということですね』
 
 
 会議を終えて部屋を出ると、金ジョンピョン局長に肩を叩かれ『安大佐、良かったな』と声をかけられた。私は『良かったな』という言葉を額面どおりに受け取るべきか迷った。その日の会議は実に長く感じられた。重苦しい雰囲気が漂っていた。国家の運命がこの席で左右されるかもしれない、と誰もが考えていたのだから」
 

  

 陸軍総長秘書室長だった光鎬大佐は明け方3時頃、官舎にいる李鍾贊総長を訪ね、参謀会議の決定内容を報告した。李総長は「今日現在、陸軍本部の結審に変わりはないだと?」と繰り返し、一笑したという。安光鎬は「今回の参謀会議は誰によって招集され、誰によって2つの大隊の釜山派兵が提案されたのか。なぜ李龍文作戦局長は出席せず、朴正熙次長が出席していたのか」と疑問を抱えていた。彼は米国参謀大学時代、鍾贊総長に質問をした。

 

 「会議の召集を提案したのは誰だったのですか?」

 
 

 鍾贊はその質問には答えず「朴正熙は大した人物だ」と答えた。安光鎬が「同感です」と答えると、李総長は「どういう点でそう思うか」と聞き返した。

 

 「朴正熙大佐の表情に加え、彼が『命令さえ下してもらえば可能だ』と返答したことや、柳ジェフン次長が『釜山派兵はダメだ』と結論を下したときも一切動じなかったことです。私は、朴正熙は清濁を併せ呑むことができるような、大きな人物だと思います」

 

 「その通りだな」
 

 

 この参謀会議に出席していた金ジョンピョン情報局長は「会議を招集した人物は朴正熙大佐だった」と証言した。派兵問題が議題となっていたため、作戦局長の代理であった朴正熙が会議を招集したのも、ともすれば当然だったといえる。当時、李承晩を失脚させる目的での軍隊動員に対しては、李鍾贊・李龍文・朴正熙の3人が核心となり関与していた。作戦課長、柳ウォンシク中佐は、朴正熙大佐の指示により、実務的に参加していた。

 
 
 鍾贊、李龍文はこの日の会議を欠席した。朴正熙は、議題のみを上程し、会議では聞き役に徹していた。大佐として、会議を主導する立場ではなかったからだ。だとすると、朴正熙が単独でこうした重要な会議を招集するはずがない。彼は、李龍文局長なり鍾贊総長なり、上層部の指示を受けて会議の招集を行ったはずだ。
 
 

 派兵が決議されれば、鍾贊総長の積極的な意思表示がなされるはずだったが、この日の彼は傍観者的な態度を示していた。だとすると、李龍文局長が代理を務めるべきだったが、彼はその座を避けた。李局長はおそらく、朴正熙大佐に議題を上程させ、参謀会議の雰囲気を探らせようとしていたのだろう。その夜、参謀会議議長となった柳ジェフン次長は、数日前(5月30日)に李承晩大統領を訪問し、大統領から深刻な話を聞いていた。

 

 「陸軍本部で、興士団の者たち(平安道の人脈を指す)が反逆を企てている。最高司令官である大統領に背反しようとした鍾贊総長を砲殺すべきだ」

 

 
 不発に終わったこの日の参謀会議は、朴正熙に多くの教訓を与えた。この時、陸軍本部が2つの大隊を釜山に派遣し「李承晩の戒厳軍」と憲兵、そして2つの中隊を接収していたら、ほぼ間違いなく政権は倒れていた。野党を弾圧していた勢力が消えれば、国会は正常化され、間接選挙で張勉を次期大統領に選出していたはずだ。こうした軍事介入が迅速に遂行され、成功すれば、米国側もその結果を既成事実として追認していただろう。
 
 

 陸軍本部はその頃「最小限の兵力で政権を倒すことができる」という絶好のチャンスを握っていた。その中心に朴正熙がいた。朴正熙は当時の自身の立場ついては1度も言及したことがなかった。後日、ニクソン米国大統領が自身の通話記録を自動的に録音できるよう手配したが、ウォーターゲート事件ではそれが最大の弱点となった。これについて朴正熙は、軽蔑した様子でこう語った。

 

 
 「ニクソンは回顧録を書いていたのだろうか」

 

 「回顧録を書くための資料を集める目的で録音をしていたのだろうか」という意味だが、朴正熙にとって回顧録を書くという考えは微塵もなかった。彼は、変化を遂げる大韓民国こそが自身の回顧録そのものだと考えていたのだ。

 
 
(翻訳・構成=金惠美)
 
 
 
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記事: 統一日報社  
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